『逃げきれた夢』の描く新しい世界
二ノ宮隆太郎監督の『逃げきれた夢』を劇場で見た。一部の映画好きが絶賛していたから。見てみると、確かに日本映画で久しぶりに新しい才能を見た気がした。実は予告編を見た時は、光石研演じる主人公が認知症になる話だと思って「よくありそうな映画かな」と考えた。
ところがそうではなかった。彼が演じる末永は、北九州で定時制高校の校長をしている。定年まであと1年というから64歳か。冒頭、妻(坂井真紀)にスキンシップを図ろうとして不審がられ、娘には質問攻めで嫌がられる。
教え子の女性が働く定食屋では、支払いを忘れて追いかけてきた教え子に「最近ボケとるとよ」と説明するが、払わずに帰ってしまう。学校ではいつも笑顔を絶やさずに各教室を回り、会議では校長をサポートし、ポイ捨て煙草を拾い、学生を励ます理想的な教頭なのだが、どこかがずれてきた。
何か余計な一言を言ってしまう。昔からの友人(松重豊)に会って盛り上がっても、おかしい瞬間がふと訪れる。特に家族や教え子を前にすると妙だ。妻子を前に、突然、定年を待たずに退職したいと言い出し、妻が「それもいいかもね」と言うと「40年も働いたんに、ご苦労様くらい言えんか」と怒り、すぐにそれを取り消して謝る。
お金を出してくれた教え子にお礼をする目的でお茶に誘うが、彼女は自分が警察に行っていたら懲戒免職で退職金をもらえなくなったのだから、退職金をくれといきなり言う。本気かどうか全くわからないが、ギリシャに住みたいから、定食屋を辞めて中州で働くとも。末永は動揺するが、見ている私も退職金を出すのではとハラハラする。
要するに、まじめに働いて人生がある程度うまくいったはずの男が、定年間際に自分のこれまでに疑問を持ち始める話である。誰とも話が通じなくなってしまった自分は何なのか。話を聞いてくれるのは介護施設で認知症が進んで反応がなくなった父親(光石研の父が演じている)だけ。あとは話しているうちに、いつも少しだけおかしくなる。
妻子や教え子との長い不毛な会話の果てに不条理が顔を出すという、実はこわい映画だった。『逃げきれた夢』というのは、「人生、何とかなった、逃げきった」と思ったのは夢だった、ということなのか。映画として新しい言語を生み出していると同時に、主人公と同世代の私にはかなりグッとくる作品だった。
そのうえ、北九州弁をそこの出身の光石研が演じるから完璧。標準語も半分交えながら文末が違う。松重豊も福岡出身で、彼らの会話は福岡の都市部のオヤジ言葉そのもの。ほとんど同じ言葉を話していた私にはこれも刺さった。福岡弁は別にしても、必見。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 少しだけ東京国際:その(5)(2024.11.06)
- 少しだけ東京国際:その(4)(2024.11.05)
- 少しだけ東京国際:その(3)(2024.11.04)
- 少しだけ東京国際:その(2)(2024.11.03)
- 少しだけ東京国際:その(1)(2024.10.30)
コメント