1983年は幸運の年
ある時、1983年は自分にとって幸運な年だったことに気がついた。1980年に大学に入学して1年休学したので、この年は3年生。この年に蓮實重彦著『監督 小津安二郎』と浅田彰著『構造と力』が出て、大いに刺激を受けた。
『監督 小津安二郎』は誰かがフランスの新しい批評をベースにしていると書いていたし、そもそも蓮實重彦氏はフランス文学者である。『構造と力』はフランスの現代哲学をわかりやすく解説した本だった。フランス文学科に進んだ私は、これは早くフランスに行かねばと思った。蓮實氏の映画の本に出てくる膨大な映画をパリのシネマテークで見たいこともあった。
当時フランス文学科で教えていたブーヴィエ先生の勧めで、その年の夏にNHKのラジオ・フランス語講座で有名な福井芳男東大教授が八王子セミナーハウスで開いていたフランス語合宿なるものに参加した。ここには東大、東外大、上智、学習院などのフランス語やフランス文学専攻の優秀な学生が集まっていた。
そこでフランスに留学する方法を教えてもらった。東京と京都にフランス語弁論大会があり、優勝すると航空チケットが提供されてフランスの大学の夏期講座に参加できることやサンケイ・スカラーシップという制度ではフランスのほか英・米・独に1年間留学できることを知った。
東京のフランス語弁論大会は当時は「朝日」主催でレベルが高いと聞いたので、京都外国語大学主催の方に出てみることにした。「失われたフランス映画を求めて」というプルーストにちなんだ題名で、フランス映画はあまり日本で見られないからフランスに行きたい、という話をしたら、1等賞になった。それまでに見たフランス映画について細かく述べてその特質を分析し、見ていない映画の題名を語ったはず。
それが11月で、12月にはサンケイ・スカラーシップの二次で面接試験があった。私はパリ第三大学映画研究学科に行きたいと訴えたが、文学研究希望者の多い中それが受けたのか、たった3名の合格枠に入ってしまった。ほかにも英、米、独が3名ずつだったと思う。
つまり、急にパリ行きの往復航空券を2枚ももらったことになった。この年、私は運をすべて使い果たしたと言っても過言ではない。翌年3月の春休みに弁論大会のチケットで2週間パリとプラハに遊びに行き、7月に再びパリに行って8月にディジョン大学で夏期講座を受けた後に、10月からパリ大学に通い始めた。
その後の人生は、この1年を起点に展開している。だからそれにつながった1983年は、唯一の「幸運の年」かもしれない。そういえばこの年に浦安にディズニーランドが生まれたが全く関心がなく、行ったのはそれから15年ほど後だった。
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