國分功一郎『暇と退屈の倫理学』はおもしろいか:その(2)
この本の中で私が一番おもしろいと思ったのは、「第二章 暇と退屈の系譜学ーー人間はいつから退屈しているのか?」だった。退屈は近代の産物と考えられがちだが、考古学や人類史から考えたらどうなるかという提案がなされる。
それで参考にする仮説が西田正規が『人類史の中の定住革命』(2007)で提唱する「定住革命」という概念という。サルや類人猿の頃から「あまり大きくない集団をつくり、一定の範囲内を移動して暮らしてきた」、つまり遊動生活でこれが人類に受け継がれた。「どれほど快適な場所であろうと、長く滞在すれば荒廃する」から。
二足歩行する初期人類は400万年前に出現したが、「人類は約1万年前に、中緯度帯で、定住生活を始めた」。日本では旧石器時代は遊動生活をしていたが、縄文時代になって定住生活が始まった。「遊動生活者は自然によってもたらされるものを採取して食料を確保する」「食料生産は定住生活の結果であって原因ではない」
なぜ定住生活が始まったかと言えば、氷河期が終わって温暖化が進み、大型獣が減ったから。そこで植物性食糧と魚類に依存するが、それは貯蔵を必要とするため、定住が生まれた。「定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を程度に働かせる」。美しい縄文土器はそうして生まれた。
西田によれば「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力して働いてきたのである」。これが「文明」の発生となる。
「遊動生活がもたらす負荷こそは、人間のもつ潜在的能力にとって心地よいものであったはずだ、と。/自分の肉体的・心理的な能力を存分に発揮することが強い充実感をもたらすであろうことは想像に難くない。そして、定住生活ではその発揮の機会が限られてくる。毎日、毎年、同じことが続き、目の前には同じ風景が広がる。……まさに退屈である」
毎日猛獣と戦っていなくなれば移動すれば退屈しない。稲作をして貯蔵を始めたら退屈が始まる。つまりは定住生活が退屈を生む。パスカルは書く。「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち部屋のなかに静かに休んでいられないことから起こるのだ」。そこでパスカルは信仰の必要性を説くが、我々はそれはできない。「本書はまさにこの「希望」の探求である」
本当に遊動生活は退屈しないのか、それ以前に1万年前までは本当にみんな遊動生活をしていたのか。謎は尽きない。それにしても、食べるものがなくなったら別の場所に移る遊動生活はおもしろそうだ。
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