林芙美子『愉快なる地図』の楽しさ
映画を教えていると、林芙美子という作家は常に成瀬巳喜男監督の名前とセットで出てくる。林芙美子原作の6本に『めし』(1951)や『浮雲』(1955)など彼の傑作が含まれているから。しかし林芙美子自身の文章は長らく読んでいなかった。
近所の名書店「かもめブックス」に文庫で彼女の『愉快なる地図-台湾・樺太・パリへ』があったので、買ってきた。この書店は入口の棚はテーマを決めて本を集めており、その日は「世界へいざなう本」でその帯を巻いていた。
この本は「編集後記」に「本書は林芙美子の1930年から36年までの海外への海外への紀行文を独自に編集したものです。文庫本オリジナル」と書かれていた。1951年に亡くなった(だから成瀬はこの年から彼女の原作の映画を撮り始めた)から、死後70年の2021年に著作権が切れて自由に出版ができるのだろう。
100年近く前の文章でも、スーツケースを4個持って歩く若い女性が漫画風に描かれたイラストを表紙に、巻末に川本三郎氏の解説が付いたら急に近づきやすくなる。中公文庫だけれど、編集者の意図が見えるよう。
実際に読んで見ると、中身もずいぶんはじけたお姉さんの文章だ。彼女は1903年生まれ(成瀬より2つ上)だから、ここの文章は27歳から33歳までに書かれたことになる。そのうえ、時代は昭和初期で満州事変の前。まだまだ大正デモクラシーの空気が強かったのではないか。
彼女の最初の旅行は台湾で、これは婦人毎日新聞の企画で数名の女性作家と一緒の講演旅行。そのうえ台湾総督府が手配した。「最初に私が連れて行かれたのは、台湾総督石塚氏の御座所である官邸であった」「雲水の破れ衣にも似た、ビラビラの夏のドレス一枚で、私は石塚総督閣下のお茶によばれたのである」
「台北の場内は常識以外の何ものもない。私には公園も博物館も静脈だ。只空の上には、台湾らしい土語が、ピンパン、ピンパン弾けている/だが、場外は、万国旗のような風景だ。台湾の動脈が躍っている/すべて街を見物するには自由行動に限ります」
つまりは招待旅行はつまらないとわかって、「自由行動」に出る。帰国後、『放浪記』が出版され「新人作家の本としては異例のベストセラーとなった」(川本氏解説)。そのお金で林芙美子は満州、中国へ行き、翌年、これまた自費でシベリア鉄道経由のパリ行きを成し遂げる。
この実行力というか、行き当たりばったりの魅力がこの本全体に溢れている。ちなみに「土語」は「現地語」くらいの意味。台湾でも満州でも樺太でも、この本には「土人」という表現が頻出するが、彼女には軽蔑の意味はなく「現地の人」という感じ。この本についてはまた書く。
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