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2023年7月19日 (水)

『わたしたちの国立西洋美術館』をめぐって:その(2)

『わたしたちの国立西洋美術館 奇跡のコレクションの舞台裏』については既に書いたが、公開も始まったのでこの映画の気になる点について触れておきたい。この映画が参考にしたというフレデリック・ワイズマン監督『ナショナル・ギャラリー』との一番の違いは、いわゆるインタビューがあることだろう。

ワイズマン監督の映画には、インタビューはない。話す人はたくさん出てくるが、実際の打ち合わせや会議やレクチャーばかりだ。『ナショナル・ギャラリー』でのインタビュー場面はテレビの取材自体をクルーと共に撮影したものだった。

この映画では館員、とくに学芸員や修復家のインタビューがたくさん出てくる。ワイズマンの映画では人物の名前さえクレジットを出さないが、この映画では名前や肩書付きで10名あまりの学芸員や外部の専門家が出てきて自分の仕事について、国立西洋美術館(=西美)について丁寧に説明する。

この映画の8割以上は西美の学芸員や修復家の仕事の説明だが、トーンが変わる場面がある。これまでの特別展の入場者数を示して、特別展の予算は共催のマスコミが負担していることを示すところ。そこで明らかな外部の人間が2人だけインタビューに答える。

元読売新聞文化事業部長の陶山伊知郎氏とパリ在住のコーディネーターの今津京子氏で、彼らもフランスの例を挙げたりするが、美術館に予算がない事には遠慮してかあまり踏み込まない。そもそも今津氏も読売新聞社と日テレの仕事をしているから、この美術館がやりやすい読売の人間を出したとしか思えない。

だからせっかく予算がない話をしても、では収集や作品管理や常設展示にどれだけお金がかかってるかも、特別展にいくらかかるかも全く出てこない。「西美には特別展のお金がないのでマスコミに頼っている」という図式しか残らない。インタビューを入れるならば、館員とそれに近い人だけではおもしろくない。

もう1つ気になったのは、西美の学芸員が自分の仕事に満足しきっているように見えたことだ。「特別展の予算がない」と言いながらも誰も困っているように思えない。一種、ナルシストのように西洋美術に打ち込める幸福をみんな喜んでいるように見えた。全国各地の美術館学芸員にしてみたら、所蔵品の購入予算があり、新聞社が企画展をすべて負担してくれる状況はほとんど天国だろう。

だから「わたしたちの国立西洋美術館」の「わたしたち」は観客や国民ではなく、「西美の学芸員たち」を指すようにさえ見える。西美の事務職員さえ全く出てこないのだから。運送会社の美術専門の作業員は出てくるが、彼らは名前も出てこないし、話すこともない。

『ナショナル・ギャラリー』は観客の姿が何度もしっかりと出てきたし、昔のニコラ・フィリベールのドキュメンタリー『パリ・ルーヴル美術館の秘密』(1990)ではそこに勤める何百人もの職員たちが次々に出てきたことを思い出す。

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