« 『告白、あるいは完璧な弁護』の二転三転 | トップページ | 『大いなる自由』の味わい »

2023年7月12日 (水)

今年は父が死んだ年になる:その(9)

つぶれる前に父が経営していた会社は、三井三池炭鉱の石炭を詰める紙袋やムシロの袋を作って出荷していた。大きな工場があって、百人を超す人々が働いていた。おもしろいのは母もそこで働いていたことで、遊びに行くと紙に糊をつけて袋を作っていた。

およそ社長夫人という雰囲気はなく、朝から夕方まで働いてから家に帰って僕らの夕食を作っていた。その後、会社が倒産して父が始めたのは、やはり「包装」に関わることだった。

最初の頃はムシロの袋を小さな倉庫で作ってどこかに卸していたが、次第にビニール製品の卸を始めた。隣の大牟田市の青果市場に店を構えて、その市場内の店や市場に仕入れに来る八百屋などが客だった。ビニール袋を始めとしてプラスチックのトレイなどあらゆる包装容器を仕入れて卸していた。

販路はどんどん広がり、ちょうど田舎にも大型のスーパーができ始めた頃で、そういう場所にも配達が始まった。配達が可能となると、希望する店は増えてそのために数人雇って3台くらいの車で一日中配達をするようになった。大牟田市のみならず柳川市の青果市場にも店を構えた。

これは仕入れて売るだけだが、注文の電話が土日には自宅にまで来たので困った。父は狩猟などでいないことが多く、母が軽トラックで配達した。ちょうど70年代半ばから何度か石油ショックがあり、ビニール、プラスチック関係は急騰した。大量に蓄えていた商品を高い値段で売ることができたと父が嬉しそうに話していたことを覚えている。

一時期は包装容器のみならず、醤油や味噌などの仕入れまでやっていたが、これは長続きしなかったと思う。また祭があると、そこでテキ屋が出すかき氷屋やたこ焼き屋もいい客だった。プラスチック製トレイなどを百単位でも配達していた。父親はなぜかテキ屋のようなヤクザっぽい人々が大好きで、よく家に連れて来ていた。

考えてみたら、会社が1969年につぶれてから父親はすぐに新しい事業を立ち上げて、4、5年たつ頃には小さな会社ながらもそれなりの生活ができるようになっていたと思う。おそらくその苦労は並大抵ではなかっただろう。そして母は父を支えて4人の子供を育てた。

上の姉たちは高校生の頃、夏休みには一日中仕事を手伝わされていた。彼女たちが不満を漏らしていたのをよく覚えている。私は高校は私立の進学校に行って長期入院、大学ではフランス語を勉強して映画ばかり見ていたのだから、とんでもないドラ息子だった。

|

« 『告白、あるいは完璧な弁護』の二転三転 | トップページ | 『大いなる自由』の味わい »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『告白、あるいは完璧な弁護』の二転三転 | トップページ | 『大いなる自由』の味わい »