『グレート・ギャツビー』を初めて読む
スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を初めて読んだ。前にここで書いた『文庫で読む100年の文学』で紹介されていたから。この本は昔は『華麗なるギャツビー』とか『偉大なギャツビー』という邦題で、とにかく有名だったのは間違いない。
何度か映画化もされているが邦題はいずれも『華麗なるギャツビー』で、私はバズ・ラーマン監督の2013年版に落胆したことをここに書いた。ところが原作は読んでいない。というか、私はアメリカ文学をほぼ読んだことがない。ヘミングウェイもサリンジャーもフォークナーもスタイン・ベックもほんの少し読んだだけ。
高校から大学にかけての私にとっての外国の小説は、ドストエフスキーやチェーホフのロシア文学であり、トーマス・マンやカフカのドイツ文学であり、フロベールやスタンダールのフランス文学だった。どこかアメリカを馬鹿にしていた気がする。
『文庫で読む100年の文学』に載っていた小説をあまりに自分が読んでいなかったので、これから折に触れて読もうと思った。近所の「かもめブックス」に村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』があったので、買ってきた。「華麗なる」ではなくカタカナのまま「グレート」とするところが村上らしい。
彼らしさで言えば、old sportを「親友」ではなく、「オールド・スポート」とカタカナのままで書いている。「グレート」はともかく、これは英語がかなりできないとわからないが(私は知らなかった)、あえてこのくらいの英語は普通だよと使ってしまうのが、村上流だろう。
小説自体も私にはすいぶん村上春樹に近いように思えた。以下の冒頭などは、まさに村上の小説のようにカッコいい。
「僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について、僕はことあるごとに考えをめぐらせてきた。/「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」/ 父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並以上にわかりあえるところがあった」
こんな親子関係があるのだろうか。あるとしたら、村上春樹の小説の中にしかないのではと思ってしまうが、これは翻訳とはいえスコット・フィッツジェラルドの文章である。正直に言うと読み終えても、どうも私には村上春樹の小説を読んだような、おもしろいがどこかカッコよすぎる感じが残った。
この小説そのものについては、後日(たぶん)書く。
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