『659km、陽子の旅』に当惑
熊切和嘉監督の映画はなぜかあまり見ていない。『海炭市叙景』(2010)がなかなか好感が持てたが、『私の男』(2014)は力作でありながらどこか違うと思った。原作への私の好みもあるかもしれない。
さて今回はどうか。『私の男』同様に力の入った映画なのだが、そもそもの設定からピンと来なかった。菊地凛子演じる陽子が部屋の中で携帯を落として壊したところに、従兄(竹原ピストル)がやってきて父の死を告げる。そして家族と共に葬式に行くので、車に乗るよう誘う。
まず、家の中で落としたくらいで携帯は壊れない。仮に壊れたら、パソコンを持って行くだろう。それに従兄ではあってもあれほど不愛想な女を車に乗せようとはしないのでは。妻が嫌がるに違いない。陽子は礼も何もなく、着の身着のまま嫌そうに乗る。
ところが途中の駐車エリアで、陽子ははぐれてしまう。従兄の子供が事故にあいそうになったからだが、大人同士がそんなにはぐれるものだろうか。そして陽子は手元には2000円強しか持っていない。これまた、大人が手ぶらで財布やカードを車に残して離れることはないのではと思う。
この映画は、陽子が金とスマホのない状態でどうやって東京から青森まで行くのかというものだが、その前提が幾重にも無理に作り出されたように見えてならない。陽子は浮浪者ではなく、40過ぎで東京の普通のアパートで自立して暮らしていたのだから。
そしてヒッチハイクをしてさまざまな出会いがあって何とか実家にたどり着く。いい出会いもいくつかあるのだが、その中で雑誌のライターが青森まで送る代わりに体を要求する場面がある。ここで驚くのはラブホテルまで行って関係を持ってしまうことで、40過ぎの働く女性としてはまずありえないと思う。
最後に親切そうな兄弟に運よく自宅近くまで送ってもらう。その時に初めて彼女は自分が18歳の時に親の反対を押し切ってやりたいことがあって東京に行ったこと、それ以来自宅に帰っていないが、今は当時の父と同じ42歳になったことなどを語る。これまで陽子が何なのかわからなかったが、終盤になって少しだけわかって安堵する。
それにしても「やりたいこと」は何だったのか、今は何の仕事をしているのかは最後までわからない。自宅で仕事をしてるうちに世間と交わるのが億劫になったと言うけれど、最後には大声を張りあげて車を探す。これではまるで、適応障害の人は絶対絶命の状況に落とし込めば、みんな直るとでも言っているようにも思えた。
もちろん菊地凛子の演技は壮絶だと思うけれど、あまりに前提がおかしすぎる。そのうえ時々出てくる自分と同じ年くらいのお父さんの亡霊(オダギリジョー)もよくわからない。
たぶんそれらはすべて監督が意図したことで、全体からあえてリアリティや必然性や説明をはぎ取った中で、極限の状況だけを純粋に見せようとする映像の実験なのかもしれないが。
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