「甲斐荘楠音の全貌」に驚く:その(4)
このブログを読んだ「甲斐荘楠音の全貌」展の関係者の方から何と招待券を送っていただいた。3回も書いていただいてありがたいと。もともと「後期」だけ出品の作品が数点あったので、喜んで招待券を持って27日(日)の閉幕間際に出かけた。
後期展示のみの作品にも、確かに見る価値はあった。この画家は18歳の時に普通の美人画でキャリアを始めているが、後期展示の《露の乾ぬ間》(1915)は21歳の作で、既に娘がちょっと狂った感じが出ている。異様な女たちの最初の絵かもしれない。
同じく後期展示の《青衣の女》(1919)は当時結婚する予定があった友人の妹を描いているとの説明が会場にあった(カタログにはない)。いかにも遠慮がちに目を伏せているが、手の動きや足の指に確実にエロチシズムを感じさせる。そのほか後期展示で《花札と女》(1927)があったが、これは生々しいエロチックな女から明るい女に移る過度期のものだろう。
そのほかはスケッチや下絵、衣装などが後期展示だった。これらを見たかったのはもちろんだが、私が確認したかったのはカタログのような「セクシャルマイノリティ」を前面に押し出した展示かどうかだった。「異性装」や「セクシャルマイノリティ」などに触れたカタログの「ごあいさつ」については、展覧会の始めに全く同じ文章があった。東京では違う文章かもと思ったのは私の勘違いだった。
しかしカタログ冒頭の3枚の甲斐荘楠音本人の耽美的な1頁大の写真は、展覧会ではずっと後に小さな写真として並んでいるだけだった。京都の展示がどうだったかはわからないが、カタログは中心となる学芸員や監修者やグラフィックデザイナーの意向で作られるので、各会場の担当者や展示デザイナーが決める展示とは別物だという当たり前のことを確認した。
例えば《青衣の女》には展覧会には友人の妹の写真も説明の文章もあったが、カタログにはない。展覧会にはないがカタログにあることはよくあるが、逆は困るとは思った。
いずれにしても2度見て、私はすっかりこの画家のファンになってしまった。「セクシャルマイノリティ」という言葉はよくわからないが、この画家には明らかに女性への憧れと賛美がある。最後に展示してある未完の《畜生塚》(1915)は豊臣秀吉に殺された養嗣秀次の正室や側室や女官たち20人が裸で嘆き悲しむ姿を描いたものだが、その前で女物の浴衣を着て嘆き、祈り、悲しむ自分の姿を撮った写真はその表れだろう。
女形を演じた写真も含めて「異性装」は彼の女性への根源的な憧憬を示したもののような気がする。去年、渋谷区立松濤美術館で見た「装いの力 異性装の日本史」展でわかったように、これは日本の伝統である。「セクシャルマイノリティ」は便利な言葉だが、十把一絡げの感じもする。
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- アーティゾン美術館の毛利悠子(2024.11.20)
- 田中一村展の混雑に考える(2024.11.16)
- 最近の展覧会いくつか(2024.11.10)
- 東博の「はにわ」展に考える(2024.10.20)
コメント
甲斐荘楠音については,セクシャルマイノリティに関することも含めて,「第二京都主義」というブログにいろいろ書いてありました.青衣の女のモデルについては,
「本人同士はもとより、両家の間でさえも将来の結婚が公認となるほどの仲」だったが,...だそうです.
このブログによると,甲斐荘の伝記もあるようです.
『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(1987年、新潮社刊)
投稿: yazaki | 2023年8月23日 (水) 23時57分