山村浩二さんの学生時代
アニメーション作家の山村浩二さんのこれまでの作品が国立映画アーカイブで連続上映されているので、見に行った。なかなか時間がないのでどれにしようかと悩んだが、上映後トーク付きの「1979-80年代 学生時代」を見た。
なぜそれを選んだかと言えば、日頃学生のアニメーション作品を見ている身として、あの山村さんは若い頃どんな作品を作ったのか知りたいと思った。これが後の40分ほどのトークと合わせると、実におもしろかった。
最初の作品は『台所会議』(1979)というアニメで、何と作ったのは中学3年生の時。当時、『アニメージュ』という雑誌が出て、そこにアニメの原始的な作り方が1頁で載っていた。トークではそのページもパワポで見せてくれたが、アイデアはあってもカメラがない。すると中学の先生が8㎜を貸してくれた。
ネスカフェの珈琲の瓶ややかんや茶碗が、誰がリンゴを食べるか議論しているうちにリンゴが自分で自分を食べるといコマ撮りアニメで、技術的には大学1年生が初めてアニメを作ったレベルだが、リンゴの中から煙のようなものが出てきて食べてしまうのがおかしい。何よりこれを雑誌の記事を読んだだけで仕上げたのがすごい。
その後、高校の時に『オーム博士星へ行く』を作り始めて、大学に入学後完成。手作りのオーム博士の西洋中世的な造形が、その後の作品を思わせる。それから大学で作った数本の実写は実験映画のようでもあるが、白塗りの顔などは当時流行った鈴木清順の映画から来ているかもしれない。
トークでは大学時代に2つの影響があったことを語った。1つは映画美術のバイトで、市川崑監督の『ビルマの竪琴』(1985年のリメイク版)で日本兵の死体を大量に作ったり、川島透監督のチェッカーズの映画『CHECKERS IN TAN TAN タヌキ』(85年)でタヌキを作った。型取りをして石膏を作ったり、タヌキの毛を植えて作業で東宝スタジオでひと夏を過ごした。
もちろんそれはアニメのフィギュアに直接行かされてゆく。もう1つは第一回の広島アニメーション映画祭に行ったことで、そこで見たアニメーションの数々、特にイシュ・パテルの作品に強く影響を受けた。パテルは翌年ぴあのアニメ映画祭で来日し、彼はワークショップで指導を受けた。それらが、『淡水』(86)や『水棲』(87=卒制)に大きく影響を与えている。
この2本だと今の大学生の卒制レベルを軽く超す。技術はともかく、発想と感性が際立つ。そして卒業後アニメ制作会社に勤めながら、『ひゃっかずかん』(89)という和英のしりとりアニメを作る。これはもうプロのアートアニメ。本当に1年ごとに進化している。
学生時代の自主制作も映画美術のバイトもアニメ制作会社の仕事も、たくさんの写真を見せながら話してくれた。写真の中の山村さんが本当に楽しそうで、みんなと打ち解けているのがわかる。天才はこのように自然に生まれていくのが手に取るようにわかるトークだった。
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