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2023年9月11日 (月)

ヌーヴェル・ヴァーグ再訪:その(4)

ヌーヴェル・ヴァーグは、『カイエ・デュ・シネマ』誌に集った「青年トルコ人」Les Jeunes Turcsと呼ばれるロメール、ゴダール、トリュフォー、リヴェット、シャブロルらの「中核メンバー」とそのほかのグループに分かれる。なぜ「青年トルコ人」なのか、調べたことがなかった。

検索してみたら簡単で、19世紀末から20世紀初頭のオスマントルコで、専制政治に反対した過激な青年たちを指す。彼らの多くが一時期フランスに亡命していたので、「青年トルコ人」という言葉がフランス語で定着したようだ。それが従来の映画界に異議を申し立てたヌーヴェル・ヴァーグの若者を指すようになった。

それはさておき、「カイエ派」にはかつて反対派から「右翼」と言われたことは日本ではほとんど語られていないと思う。単純に言えば、当時のフランスの左派インテリはアメリカ映画を否定していたが、「カイエ派」はまさにアメリカ映画を再評価することから始まった。

左派インテリの代表選手のジャン=ポール・サルトルは、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』を時代遅れと批判したが、「カイエ派」の精神的父親であるアンドレ・バザンはこれに反論した。「カイエ派」の連中はこれまで職人と見なされていたアメリカのヒッチコックやホークスを高く評価して、「ヒッチコック=ホークス主義」と言われた。

アメリカ映画が好き嫌いだけではない。ヌーヴェル・ヴァーグの初期作品であるトリュフォーの『大人は判ってくれない』にも、ゴダールの『勝手にしやがれ』にも、ロメールの『獅子座』にも、シャブロルの『美しきセルジュ』や『いとこ同士』にも、いわゆる政治性は見当たらない。あるのは、社会や家族で居心地の悪い思いをする極私的な世界だけである。

たぶんフランスの左派インテリは日本だと「戦後民主主義」のような感じで、あくまで自分たちの身近なリアリティを映画に求めた「カイエ派」の連中には作りものにしか思えなかったからではないか。それであえて右派ぶるような態度にも出たのではないか。

『勝手にしやがれ』で監督のジャン=ピエール・メルヴィル演じる作家は、空港のインタビューで黒いサングラスをかけて、パトリシアの質問に答える。「希望は不死となって死ぬこと」。彼の全くインテリに見えないギャングのような、あるいは無神論者のような態度こそ、ゴダールが求めたものではないか。

『いとこ同士』でジャン=クロード・ブリアリ演じるポールは、明らかにファシスト風だ。カイザー髭を生やしていくつも銃を持ち、狩猟のトロフィーを自慢する。やたらにドイツ語を話し、ゲーテやニーチェやワグナーを引用する。極めつけはパーティの翌朝に部屋で寝ている友人を、「ゲシュタポ!」と脅して起こして「彼はユダヤ人だからね」と言う。

この映画が公開されたのは1959年3月で、ドイツの占領から15年もたっていない。あえて物議をかもしそうな人物を配するのが、ヌーヴェル・ヴァーグらしさかもしれない。そういえば、シャブロルは「国民戦線」の創立者、ジャン=マリー・ル・ペンと仲が良かったことが知られている。彼は本当に右翼だったのかも。

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