昔の映画館の話
先鋭的な企画で知られる山口情報芸術センターから送られてきた案内に、「山口市 映画館の歴史」という意外な展覧会があった。表紙に1937年の「金竜館」の満員立ち見の観客の写真。下関市出身の田中絹代来館時とキャプションがあった。
そこには、「山口市は日本で数少ない、民間の映画館がない県庁所在地ですが、1960年をピークとした映画全盛期には10館を超える映画館が存在していました」と書かれていて、かつて山口市に存在した映画館の名前が20も書かれていた。
ピカデリー劇場や山口東映、山口スカラ座のような明らかな邦画大手系列館もあるが、大半は山口座、金竜館、秋穂座、堀座、八千代館のような地元興行主の独立館のようだ。映画館の名前を見るだけで楽しい。地元の方はこの展覧会を懐かしがるだろうなと思っていたら、忽然と自分の思い出が蘇ってきた。
私の生まれた町(今は統合されて市になった)に映画館はなかった。映画は車や電車やバスに乗って隣の大牟田市に見に行った。最初に見た映画は小学一年生頃だったか。なぜか両親と一緒に休日の夜に『赤影』を見た。途中から入って、次の映画が始まってしばらくして父が「もうよかやろ」と言うので出た。
次に見たのはコント55号の映画で、これは透明人間になった欽ちゃんと二郎さんが女性の裸を見るシーンがあって、ドキドキした記憶がある。これはたぶん父と二人で見た。1970年頃だと思う。
大牟田市では「太陽館」という映画館が大きかった。ネットで検索したら「消えた映画館の記憶」という総合サイトがあり、全国のかなり小さい都市までかつてあった映画館の記録がある。それによれば、1915年開館で座席は500席弱、1989年まで続いたというから、実に由緒正しい映画館である。
ここが閉じた時の「毎日」の記事は「1958年頃が大牟田市の映画館の最盛期であり、人口20万人を超えた大牟田市には20館以上の映画館があった。三池炭鉱は24時間の3交代勤務であり、平日昼間でも勤務時間外の鉱員らが行列を作った。テレビやビデオの普及、炭鉱業の斜陽化によって映画産業が衰退し、観客数は10分の1にまで減少した」
私が一人で映画を見始めた70年代は、太陽館と3、4スクリーンの大牟田セントラル会館に大牟田日活だったと思う。中学生の時は毎週末に邦画は太陽館、洋画は大牟田セントラル会館に行って、朝9時から3本立てで午後3時くらいまで見た。そして新栄町駅のビルでうどんを食べて帰った。
『ジョーズ』、『タワーリング・インフェルノ』、『エクソシスト』などよく覚えている。まさか将来映画を教えるとは、夢にも思わなかった。
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