小津百年の頃
昨夏の暑い頃、小津安二郎生誕120年で『父ありき』のデジタル復元版を試写で見た時に、松竹の担当者のFさんと「あれから20年もたったのですねえ」と話した。「あれ」とは「小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウム」のことである。
それを思い出したのは、最近蓮實重彦さんが「Webちくま」に小津百年のシンポのことを書いて私の名前も出していると数人の知り合いから連絡があったから。すでに月刊「ちくま」に出た時から噂は聞いていたが、読んでいなかった。詳細はリンクを読めばわかるが、彼の文章はまどろっこしいので、関連部分をコピペする。
「小津安二郎の生誕百年を祝い、その没後四十年を追悼するという国際シンポジウム「OZU 2003」を親しい友人でありかつまた同志ともいうべき吉田喜重氏と山根貞男氏――お二人とも、昨年暮れから今年の初めにかけて、惜しまれつつも物故された――とともに企画し、当時は朝日新聞の記者だった古賀太氏をプロデューサーに迎え、三人で司会を務めたときのことを甘美な記憶として想起せずにはいられない。」
「あるとき、都内のさるホテルに吉田喜重、山根貞男、蓮實重彥の三人が集まり、そこでいきなり、来年は小津安二郎監督の生誕百周年にあたるが、何もせずにおいてよいのかという話になり、誰いうとなく何かやらねばなるまいということとなり、即座に朝日新聞社の古賀太記者(当時)に電話して、このホテルのさるカフェまですぐに来てくれないかというと、了解しましたと請け合うなり十五分もしないうちに彼が姿を見せた。そこで、これこれのことをやりたいと決まったので協力してくれないというと、やりましょうという彼の一語ですべてが決まってしまったのであり、そのために改めて会議を開くこともなかった。」
一文が長いので引用が長くなった。ちなみに私は当時は記者ではなく文化事業部にいたが、要するに今は大学教師なので当時は朝日にいたということなのだろう。吉田喜重の行きつけのホテルニューオータニのあるカフェに呼び出されたことは、よく覚えている。携帯に電話を受けてすぐに築地からタクシーに乗って行ったが、さすがに15分ではなく30分はかかったはず。
そこで言ったのは「朝日ホールで丸2日間もやって海外から何人もビジネスやファーストクラスで呼んだら2000万円はかかりますね。入場料だと1日2000円取っても300万円行かない。残りは美術展の経費からごまかしたら、何とかできるでしょう」という内容。結果的には松竹から広告をいただいたり、NHKーBSから放映料をもらったり、自社で始めた通販サイトで小津のDVDボックスが大量に売れて黒字となったけれど。
2日間で30人以上を舞台に上げて、英語とフランス語の同時通訳とペルシャ語と中国語の逐次訳を入れたシンポは大成功で、「朝日」に1頁の報告が載り、朝日選書で詳細な採録も出た。あの頃は40代前半で朝から晩まで全身全霊で仕事をしていた。考えてみると、最近出した美術展やイタリア映画史の新書などは、それに比べたら児戯に等しい。
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