名刺を配ること
先日、ある著名な美術史家にパーティで会う機会があり、私は彼の本の書評を書いたことを伝えると「ああ、あなたでしたか。書評が出なかったので嬉しかったです」と感謝された。その勢いで私は自分の名刺を出したが、先方は「すみません、名刺は持ち歩いていないので」と言われた。
このことを急に思い出したのは、昨日の「朝日」の鷲田清一さん連載「折々のことば」で種村季広の言葉を読んだから。「世を避けるのに「深山幽谷」に住まう必要はない。テレビを家に置かず、名刺を持たないこと。集いの席でも口をきかずにすむし、人と会ってもすぐに忘れてもらえるとドイツ文学者は言う。何かに打ち込みたければ世に隠れること」
「名刺を配る」という行為は会社員、社会人の基本である。学生を終えて会社や役所などの組織に勤め始めた時の一番の違いは、名刺を持たされること。「新人は先に自分から出すものだ」と言われたので、会う人ごとに真っ先に配った。名刺を出すと、相手はその団体の一員として見なしてくれるので、一挙に何者かになったような気がした。
名刺を交換する相手には有名人もいたりするので、社会人になりたての頃は名刺を集めるのが嬉しくてしょうがなかった。何年かたつと名刺ホルダーを買って、整理するようになった。最初は政府系団体に5年半、それから新聞社に15年半勤めたが(たぶん)、A4の名刺フォルダーは20冊を超した。
だから今でも外出する時は名刺を持つ習慣がある。ところが昔からそうだが、名刺を配ると面倒なこともある。自分が何の役にも立てない相談を受けたり、突然飲みに行きましょうと誘われたりする。若い頃はそれらを何とか乗り切ってきたが、今ではだんだん無視することにした。
なぜ名刺を配るのか。それは新しい仕事につながるからだった。特に新聞社時代のように企画を立てる仕事だと、どこにいいネタが転がっているかわからない。ちょっとした相談を受けているうちに「それは展覧会にできますね」ということもあった。飲み屋だろうがどこだろうが、「いつも営業」の精神だ。
ところで、フランスでは名刺を出すのは別れ際が多いと思う。この人とは今後も仕事をしそうだ、あるいはつき合いたいと思った時に名刺を出す。私もフランスではそうすることにしたが、大学に移ってからはフランス式になってきたかもしれない。
大学は教授のポストに就けば、その上はないから「営業」の必要はない。もちろん学部長などになりたいと思わなければ。ネタはすべて自分で考えないといけない。それでも名刺を持ち歩くのは、20年を超す会社員人生で身についた習性としか言いようがない。もうすぐ大学を定年になったら、私は本当に名刺なしで歩けるだろうか。
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