「チネマ・リトロバート」とは:その(3)『シシリーの黒い霧』の新しさ
フランチェスコ・ロージの『シシリーの黒い霧』(1962)を見た。これは2001年の「イタリア映画大回顧」で上映したし、あまり状態のよくない日本版DVDも持っているが、デジタル修復版であの迫力を確認したいと思った。
久しぶりに見て思ったのは、これはロージの中でもかなりわかりにくい作品ではないかということ。原題は「サルヴァトーレ・ジュリアーノ」だが、映画は1950年に彼が殺されて死体を警察が調べているシーンから始まる。そして誰が殺したのかをめぐってナレーションが説明を始める。
ところが45年から遡って5年間を見せる映像を見ても、いま一つわからない。その意味で、私がこの映画について『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』に「五年間を遡りながら真相を探る構成は『市民ケーン』を思わせ、新たなネオレアリズモ世代の誕生を告げた」と書いたのは正しかったかも。
一番の新しさは、原題にもなっているサルヴァトーレ・ジュリアーノが画面にきちんと出てこないことだろう。1946年に恩赦でジュリアーノが故郷に戻るとさっそくシチリア独立運動に取り組みながら、同時に誘拐、強盗などを繰り返すことはナレーションで語られるのみ。憲兵がジュリアーノを探し出すために、彼が潜むモンテレプレから若い男たちを次々に連れ出して広場で尋問するシーンは実にリアル。
そしてそれに反対する母や妻たちが奇妙なうめき声を挙げながら道路を走り出し、何十人も集まって広場で抗議するさまは圧巻。憲兵たちは独立派の主要な若者をトラックに乗せる。それに遮二無二しがみつく女たちを押し切る。
もう一つの迫力あるシーンは、1947年のメーデーでポルテッラ・デッラ・ジネストラに集まった人々が、どこからか現れた山賊たちに一斉に射撃される場面。ジュリアーノはもちろん山賊たちの姿もほぼ見えず、銃声だけが激しく鳴り響く。
裁判のシーンも格別だ。これはマルコ・ベロッキオの『シチリアーノ 裏切りの美学』(2019)でも見られたが、数十人の被告たちが2つの大きな檻に入れられており、そこからの発言も可能。こちらの映画は1980年代が舞台だが、イタリアの裁判は昔からこうなのか。そこではジュリアーノの片腕だったガスパーレ・ピショッタが爆弾発言をする。
「我々は憲兵ともマフィアとも手を組んですべて話し合ってやった」「メーデー事件の真犯人はジュリアーノが憲兵に渡したメモにある」などと言うので、法廷は大騒ぎになる。そこでピショッタが手引きして憲兵がジュリアーノを殺すシーンが出てくる。
ところが、ピショッタが獄中である朝飲んだ珈琲に毒が盛られていた。最後は唐突に1960年で、誰かが広場で殺される場面で終わる。これは誰なのか、謎のままに映画は終わる。警察とマフィアと山賊が手を結んでることしかわからない。この闇が権力と繋がっていることをあのような複雑な構成で見せたことが「新たなネオレアリズモ世代」である。
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