最初にパリに行って40年がたった:その(1)
先日、北村陽子さんが亡くなられたという知らせを受けた。私より少しだけ上の65歳とは早過ぎる。彼女は早大でフランスの美術や文学を教えていたと思うが、私にとっては永遠に「1984年にパリで会った留学仲間」の1人。急にその頃のことを考えていたら、40年もたっていたことに気がついた。
先日、北村陽子さんが亡くなられたという知らせを受けた。私より少しだけ上の65歳とは早過ぎる。彼女は早大でフランスの美術や文学を教えていたと思うが、私にとっては永遠に「1984年にパリで会った留学仲間」の1人。急にその頃のことを考えていたら、40年もたっていたことに気がついた。
フランスのジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学』を劇場で見た。最近は原稿書きで忙しくブログ更新も昨年9月末から2日に1回にしたので、新作映画を見る回数も減らしている。ただこれはぜひ見たいと思った。
フランス映画のヌーヴェル・ヴァーグはあまりに有名だが、その後に出てきた監督たちは「ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれる。具体的にはジャン・ユスターシュ、フィリップ・ガレル、ジャック・ドワイヨン、ブノワ・ジャコー、シャンタル・アケルマンといった監督たちだ。
私は昔から「いつも元気」で有名だった。いつも笑顔で悩みが一切なさそうだし、体力的にも、駅の階段は走って駆けあがり、青信号が点滅を始めると慌てて走った。つまりは力が余っていて、疲れ知らずだった(少なくとも見た目は)。
毎年この季節には東京都写真美術館を中心に「恵比寿映像祭」が開かれる。入場無料のこともあってたぶん毎年行っているが、いつも失望する。まず毎年のテーマを聞いただけで気が遠くなる。今年は「月へ行く30の方法」で例年に比べると具体的なので少し期待した。
3月15日公開のイ・ソルヒ監督『ビニールハウス』を試写で見た。まずチラシやポスターの「半地下はまだマシ」というキャッチコピーに惹かれた。もちろん「半地下」は大ヒットの韓国映画『パラサイト』が見せた世界だったが、確かにあの映画の調子の良さよりももっとダークな世界がありそうな気がしていた。
宮下規久朗著『日本の裸体芸術 刺青からヌードへ』を文庫で読んだ。著者の宮下氏は昔、東京都現代美術館の学芸員だったので面識はあるが、仕事をしたことはない。しかしその旺盛な執筆活動は知っていたので、いつか読んでみたいと思っていた。
三宅唱監督の『夜明けのすべて』を劇場で見た。小さな会社で働く人たちのほとんど何も起こらないようなドラマなのに、まるで社会を揺るがすような大きな映画に見えた。久しぶりにとんでもないものを見た感じ。同じ監督の『ケイコ 目を澄ませて』にも驚嘆したが、なぜかそれを上回る。
自宅近所の書店「かもめブックス」で見てすぐに買ったのが文庫『つげ義春の温泉』。まず、表紙のひなびた温泉に老婆が2人、裸でくつろいでいる白黒写真にやられた。筆者はつげ義春なので『ねじ式』のあの退廃的な雰囲気と結びつく。
4月26日公開のマルコ・ベロッキオ監督『エドガルド・モンターラ ある少年の数奇な運命』を試写で見た。この映画のすばらしさ自体については公開前に書くが、今日は印象に残った俳優たちについて書き忘れないうちに書き留めておきたい。
最近は何を見ても昔のことを思い出すが、初台で転んだ後にソファでじっと時間をつぶしながら思い出したのは、中村敬冶さんのことだった。前回、1990年に日本のビデオアートの1980年代アンソロジーを作ってダムタイプの「Pleasure Life」を選んだと書いたが、その時の作品選考委員の一人が中村さんだった。
ベルギーのバス・ドゥヴォス監督の『Here』を映画館で見た。「朝日」で月永理絵さんが、「日経」で古賀重樹記者が絶賛し、劇場のHPではエリック・ロメール、アピチャッポン・ウィーラセタクン、ケリー・ライカートなどと比較していたから。
自宅で一日中卒論や修論を読んで煮詰まったので、夕方に初台に行った。オペラシティで3月10日までの坂本龍一の展覧会を見るために。実は行く前から私には向いていないだろうという予感はあったけれど、一応、坂本龍一だし。
茨木のり子のエッセー集『言の葉さやげ』を読んで、「あっ」と声を出しそうになった。この中の3つ目の「「させる」と「使う」」という文章を読んでいた。この著者は詩人だが、私はまともに彼女の詩を読んだことはない(というか「現代詩」は全く知らない)。
最近のコメント