最初にパリに行って40年がたった:その(4)
1984年3月にパリとプラハに2週間行った時、お土産はプラハの百貨店で買った自分用の革のバッグと、パリのクリニャンクールの蚤の市で女友達に買った中古の革のポシェットだけだったと思う。
あとは自宅と大学の仏文学研究室用に空港でチョコレートくらい買った気がする。エールフランス機はパリからアンカレッジ、成田を経由して午後3時頃大阪に着いた。アンカレッジでは日本人のおじさん達がうどん屋に走って行ったのに驚いた。そこのお土産物売り場で働いていたのは派手過ぎる化粧の中年の日本人女性たちで、気持ちが悪かった。
大阪に着いて税関で「新幹線の時間が迫っていますから早く」と言ってしまい、逆に入念に調べられたのも覚えている。新大阪駅までバスで行き、それから新幹線。さすがに福岡の自宅に着いた時には疲労困憊していた。
それから4カ月後の7月末にまたパリに行った。さすがに2度目だとよく覚えていないが、アエロフロート機で夜に着いたのは間違いない。ホテルはサンケイスカラーシップの依頼を受けた旅行代理店が手配したが、「100フランです」と聞いて3000円ほどだと思っていたら、マドレーヌ広場の3つ星ホテルに着いてそれは100ドル、つまり13000円くらいだと判明した。
翌朝、私はディジョンに向かった。往復の航空券と1年間の滞在費(月に10万円)と学費はサンケイが払ってくれたが、弁論大会の副賞のディジョン大学夏期講座1カ月を活かそうと思った。これは外国人用のフランス語講座で、8月ひと月の学費と寮費を出してもらった。
行ってみると日本人が一杯で、聞いてみたら東京の語学学校が組織しているツアーが2組あるとのこと。クラス分けの試験を受けると上級クラスに入れたが、そこはイタリア人の高校生が大半だった。そこでついでに彼らからイタリア語を学んだのが、イタリアとの付き合いの始まり。
ディジョンでは午前中の語学の授業のほか、午後はいろいろなコースが選べた。料理教室があって、「コック・オーヴァン」(鶏の赤ワイン煮込み)や「ブッフ・ブルギニョン」(牛の赤ワイン煮込み)を作るのが実に楽しかった。週末には、大学が企画するハイキングや一泊のロワール城めぐりにも参加した。
ただ、1ケ月、ほぼ一人で過ごした。今思うと後悔するのは、その時のフランス人の先生が20代後半の女性で映画好きなので気が合ったが、同じ寮にいて部屋番号まで教えてくれたのに、行かなかったこと。そこまで考えが至らなかった。その先生の顔は今でも少し覚えている。
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