アドリアーノ・アプラさんが亡くなった
イタリアのアドリアーノ・アプラさんが亡くなった、と書いてもほとんどの日本人にとっては「誰、それ?」かもしれない。ストローブ=ユイレの『オトン』(1970)の主役と書いても、「ああ」と言う人は多くはないだろう。
1940年生まれで83歳で亡くなったアプラさんは、日本だと蓮實重彦さんくらい影響力のあるイタリアの映画評論家で、ドキュメンタリー数本も監督している。私にとっては、2001年にフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)で企画した「イタリア映画大回顧」のイタリア側の責任者だった。
この準備のために、彼とは何度も会った。最初に会ったのは、2000年のGWだったと思う。「2001年 日本におけるイタリア」の打ち合わせでローマの丘にある壮麗な建物のイタリア外務省に行った私は、アプラさんを紹介された。それから外務省所有のテベレ川の河岸にあるレストランで、2時間くらい昼食をした。
彼はほとんど一人でイタリア映画史におけるネオレアリズモの意味について語っていた。次に会ったのはその年のヴェネツィアで、今は閉じている「ホテル・デ・バン」のロビーで待ち合わせた。急に豪雨が来て彼は遅れたが、ちょうどついた時にそのホテルでは「ヴィスコンティの間」でイタリア代表団の豪華なディナーが開かれようとしていた。
彼も私も招待されていなかったが、彼に何人もの知り合いが「大丈夫だから入れ」と言うので、私も付いていくことに。夕食は席に着いて自由に食べ物を取りに行く形だったが、最初にサラダを取りに行った後は、アプラ氏は私を相手にイタリア映画史の講義を始めた。2時間ほど、食べることは全く忘れていたようだった。
講義が終わりに近づいた頃、マルコ・ベロッキオ監督が「おい、アドリアーノ、君もアジアの少年が好きなのか」とやってきた。もちろん私のことだが、私は40歳だった。それから「なんだサラダばかり食べさせたら彼がかわいそうだ」と言われて、みんなで肉を取りに行った。肉はもう残っておらず、パスタの残りを少しずつ取った。
その後はホテルのテラスで食後酒を飲んだ。若い奥さんのステファニアさんも合流した。そこには流しの歌手なども来て、まさに『ベニスに死す』のようだった。考えてみたら、その時は私は「ホテル・デ・バン」に泊まっていた。
次に会ったのは、2001年9月のローマで「朝日」の石飛徳樹記者と「イタリア映画大回顧」のためのインタビューをした。ちょうど9.11の日で、テレビで飛行機がビルに飛び込む映像を見た後だった。何を話したかは全く記憶にない。
そして2002年2月の閉幕に合わせて、彼は来日した。私は1週間ほぼ一緒に過ごした。今考えると、去年書いた『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』の基本は、彼との会話によってできあがったと言えるだろう。ありがとう、アプラさん。
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