アドリアーノ・アプラさんが亡くなった:続き
この4月15日に亡くなったアプラさんのことをもう少し書く。彼が2001年秋から翌年初めにフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)で開催した「イタリア映画大回顧」のイタリア側の責任者だったのは、当時、チネテーカ・ナチオナーレの所長だったから。
チネテーカは日本の国立映画アーカイブに当たる組織だが、何とそれは国立映画学校である映画実験センター(通称チェントロ)と同じ建物にあった。簡単に言えば、基本は映画制作を学ぶ学生に見せるために古今東西の映画を収集していた。そのうえ、道路の真向かいはチネチッタ撮影所である。
私が彼の名前を知ったのは、1998年か99年のベネチア国際映画祭でフランス映画社の柴田駿さんに「2001年のイタリア年でイタリア映画祭を準備しています」と言ったら、「それはアプラさんに相談するといいよ」と聞いたから。結果としては彼の名前はイタリア外務省から私に伝わってきた。
新作映画祭とイタリア映画の古典を上映する2つの企画を大使館に提案したところ、最初はイタリアの映画製作者連盟とかチネチッタ国際部とか紹介されて右往左往したが、2000年には新作は海外でのイタリア映画普及がメインのフィルムイタリア、古典はチネテーカの担当となり、アプラさんが出てきた。
アプラさんが日本に来た時、覚えているのは今はなき「永田町・黒澤」での夕食会。黒澤明の絵コンテなどがふんだんに飾られた民家風のしゃぶしゃぶ屋さんで、柴田駿さん、蓮實重彦さん、フィルムセンター研究員で今は館長の岡島尚志さんと一緒だった。アプラさんは1980年代にトリノ映画祭の仕事をしていた時に何度か来日したらしかった。
それから退屈だったイタリア大使館での夕食会。この時は大使の希望でイタリア映画とは何の関係もない日本のアイドル歌手もいたが、名前が思いだせない。銀座で2人で鮨をつまんだ時は、貝のつまみ盛り合わせを本当においしそうに食べていた。またどこかで大島渚の『御法度』英語字幕入りDVDが日本で買えると聞いて、私は松竹の友人に電話して上野の松竹ショップに買いに行った。
それはチネテーカやチェントロの理事長、リノ・ミチケさんへのお土産だった。ミチケさんはトリノ映画祭を創設した映画評論家でアプラさんのいわば師匠だったが、体調が悪いので東京には来られなかった。
もう1つだけ。2015年にアプラさんが山形国際ドキュメンタリー映画祭で来日した時に会ったが、最初は私のことを全く覚えていなかったのにショックを受けた。すぐに気づいて謝られたけれども。今思うとその時既に75歳だから、しょうがないかもしれない。
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