舟越桂さんが亡くなって2週間
彫刻家の舟越桂さんが3月29日に72歳で亡くなった。すぐにここに書くことをためらったのは、あれだけ有名な方だし、自分はほんの短い期間、接触しただけだったから。ところが今朝の「朝日」で酒井忠康さんによる追悼文を読んでいたら、いろいろなことが蘇ってきた。
私は、1988年秋、この3月まで世田谷美術館の館長をしていた酒井忠康さんと舟越桂さんと一緒に1週間サンパウロに行った。まだ勤め始めて3年目で、その年の1月に美術を担当する課に異動になって、初めての海外出張だった。
それはサンパウロ・ビエンナーレでコミッショナーの酒井さんは舟越さん、若江漢字さん、神山明さんを選んだ。酒井さんはその年の夏のベネチア・ビエンナーレのコミッショナーでもあり、日本館の3人に既に舟越さんを選んでいた。ほかの2人が戸谷成雄、植松奎二とずっと年上だったので、舟越さんは明らかな「抜擢」だった。
彼は最初から違った。まず暑い夏の日、酒井さんと作家の3人、担当者の私と上司の6人で顔合わせの昼食会のこと。ほんの少し遅れてきた彼は深々と頭を下げて無礼を詫びた。その後のあのお茶目な瞳での語りの爽やかさといったら。
サンパウロでも「国際感覚」は明らかだった。ホテルの人にも展示の作業員にも必ず挨拶をしてニコリとする様子は、どこでもすぐに人気者となった。遠くにいる人間にもアイ・コンタクトを送った。彼は自分でそれを「2年前にロンドンで1年過ごした時に、いつも孤独だったけれど、アイ・コンタクトをしているうちに、周囲と打ち解けていった」と私に語った。
今思うとそれは国際云々よりも、品の良さだった。サンパウロに行く前に、作品を送る必要があった。私は彼の家にある作品を借りに美術梱包車に乗って集荷に行った。作品は天井の高い洋間にあったが、彼自身のアトリエは家の横に立っている物置だった。
するとその洋間に入ってゆく車椅子があった。立ち合いに来ていた西村画廊の西村さんが「あっ、先生じゃないですか!このたびは息子さんにお世話になりますー」と声を上げた。それは元東京芸大教授の舟越保武さんだったが、私はそれが舟越桂さんのお父さんだと言うことさえ知らずに、あとでNさんに笑われた。
印象に残っているのは舟越さんのアトリエには写真や雑誌の切り抜きなど、いろいろな人物像があちこちに貼ってあったこと。聞くと「気になったものはすべて貼っている」ということだった。
サンパウロで一番印象に残っているのは、あるホテルでのこと。展示期間中やオープニングの2日間は各国がパーティをやるが、アメリカのパーティに誘われて作家3人と行くとホテルの会場入り口で「招待状がなければ入れられない」と断られた。私は関係者を出せと大声で騒いだが、舟越さんは「みっともないからやめてください」と私を止めた。みんなはそのまま帰ることにしたが、あれも「品の良さ」だったのだろう。
書いていたらまだまだ思い出が出てきたので、後日書く。
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