自分の背中を考える
だいぶ前から「朝日」の朝刊に、鷲田清一の「折々のことば」がある。かつてここには大岡信の「折々のうた」が連載されていて、時々別の筆者の「折々の花」などもあったと思う。「折々のことば」が始まった頃は全くダメだと思ってきちんと読まなかったが、最近は妙に気になる。
先日、こんな文章があった。「先生の存在が、〈問い〉だからである。(大澤真幸)」
自分が「先生」になってからは、この言葉には目がとまる。これは『私の先生』という本にあるらしいが、鷲田氏の解説の最後に「実際、教わった知識はまたたく間に忘れても、先生の背中は忘れない」と書かれていて納得した。
私の場合も大学に入ってから学校で学んだことは、全く覚えていない。法律学も国際関係論も単位は取ったが、すべて忘れてしまった。文学部の国文学も社会学も何も覚えていない。1年半後に専門課程でフランス文学科に進んだが、これまた何を勉強したか、何を読んだか記憶にない。
唯一残っているのはフランス語の知識だが、これは1年生の時から九州日仏会館に通っていたから。また大学でフランス人のブーヴィエ先生と仲良くなり、一緒に富山の利賀村で始まった国際演劇祭に行ったり、彼が出ている演劇公演を見たりしたから。
専門のフランス文学科の教授と助教授から学んだことは、記憶の彼方にある。途中でパリに1年行ってからのパリ第三大学での授業やその後の早大の院の授業はよく覚えているのに。たぶんパリに行ったあたりから自主性というか、自分で学ぶ姿勢が出てきたらからかもしれない。
さて鷲田さんの文章にはこう書いてある。
「何かを知ろうとすれば問いを立てなくてはならない。そして良く問うには先生が必要だと、社会学者は言う。正解を先に手にしている人ではなく、より深い未知に身を開いてゆける人として。人生の意味は何かある目的の達成にあるのではなく、日々の歩みの在りように懸かっている」
私はパリに行くと決めたあたりから、映画についてもっと知ろうと意欲に燃えた。さて自分が「問いを立てた」かわからないし、「より深い未知に身を開いてゆける人」を見出したかどうかもあやしい。しかし少なくとも、パリの大学のミシェル・マリー教授や講師で評論家のアラン・ベルガラさんの言葉はよく覚えている。
彼らは大学では先生らしい風情だが、シネマテークなどで会うとまるで映画好きの友人のように嬉しそうに話していた。あんな風に生きられたらいいなと思った。それが「日々の歩みの在りよう」なのかもしれない。それにしても自分の「背中」は見えないので、どう見えているかはわからない。
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