アラン・ドロンのこと
アラン・ドロンが亡くなったが、「朝日」で石飛徳樹記者が「子どもでも知っているくらい有名な存在だった」と書いているのが、おかしかった。本当に70年代初頭、小学生の私は「ダーバン、ムニャムニャ」というTVコマーシャルが大好きだった。
ついでに言うと同じくらい有名だったのがチャールズ・ブロンソンで、彼の「ウーム、マンダム」というCMはみんなが動作まで真似をした。ダーバンにはそういうジェスチャーがなかったし、そもそも何を言っているかわからなかったが、それがまたフランスらしくてよかった。
それから彼のことを記憶しているのはたぶん80年代から90年代だったと思うが、フランスのツアー旅行で「アラン・ドロンとの夕食付き」というのがあった。まさかと思ったが、友人によると食事の最初に出てきて挨拶をするだけという。そこで彼は毎回10万円もらう。ツアー客100人の夕食会ならば、十分可能だろう。
彼は日本人からのギャラは円で指定した。1995年の映画百年の時にWOWOWが作った番組で冒頭にアラン・ドロンが2、3分出るだけで1000万円だったという話を聞いた。これは協力したので出来上がりも見たが、出だしに彼が列車から降りてきて「映画は列車の到着から始まった」と言うだけだった。
それから私が1998年のフランス年で企画した「アニエス・ベーは映画が大好き」という映画祭でジャン=ピエール・メルヴィル監督『サムライ』をやったので、彼を呼びたいと共催の東京日仏学院に半分冗談で言った。すると帝国ホテルのスイートでかつギャラが別途1000万円かかると聞いたのでやめた。
そういえば朝日ホールでの『サムライ』の上映の時にちょっとおかしな中年女性がいた。真っ赤なジーンズをはいて、主催者らしい風情の私の方に歩いて来て「アランにこの上映を伝えたら知らなかったと言ったわよ」と言われた。上映後、観客が退場して一番最後に帰ったのが彼女で「さっきアランに電話して満員だったと伝えたら喜んでいたわよ」
次に2004年に「ルキノ・ヴィスコンティ映画祭」をやった時に『若者のすべて』と『山猫』があったので、またその女性が来るかと楽しみにしていたが、来なかった。「アニエス・べー」の時はアラン・ドロンをチラシ表紙に使ったが、ヴィスコンティはそうではなかったからか。
学生の頃、フランス文学を専攻している身としては彼のような存在は迷惑だったが、後にヴィスコンティやメルヴィルの出演作を見るようになってからは考えが変わった。ゴダールにまで出たのだから。
そういえば私が最初に映画館で見たのは『アラン・ドロンのゾロ』だった。つまらなかった記憶があるが、調べてみたら監督はマカロニ・ウェスタンの名手、ドゥッチョ・テッサリだった。
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