矢野和之さんが亡くなった
矢野和之さんが11日に亡くなられたという連絡を受けた。知る人ぞ知るというか、ある時代の映画好きにとっては忘れがたい人だった。私は個人的にもずいぶんお世話になった。私が国際交流基金に勤め始めたのは1987年だが、矢野さんはその2年前にそこを辞めていた。10年ちょっと勤めたと言っていた。
私が初めて会ったのがいつかはっきりしない。たぶん1989年の第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭が終わってすぐのことではないか。私は勤務先で美術を担当していたが私の映画好きは有名だったので、映画の部署に遊びに来た矢野さんを紹介されたのだと思う。
すぐに仲良くなって、麹町で仕事が終わると当時神楽坂にあった彼のオフィスを訪ねるようになった。彼がフィリップ・ガレルの『自由、夜』を配給したのが1990年5月だが、私はその時のパンフレット用にガレルのインタビューをフランス語から訳している。私が映画の部門に行けずに悩んでいたのを見た矢野さんは、何か映画の仕事をやらせようと思ったのだと思う。
憶えているのはその直前の4月初旬に香港映画祭に行っていて、ゲラがそこに送られてきたこと。彼は山形映画祭の「東京事務所長」をしながら、シネマトリックスという名前で配給をしていた。私は映画祭と配給の両方でフランス語と英語の資料を訳す仕事を始めた。『カイエ・デュ・シネマ』誌でドキュメンタリー映画のおもしろい記事を見つけると、頼まれもしないのに訳したこともあった。
1991年の映画祭の審査委員長は私が仲良くしていたジャン・ドゥーシェさんに頼むことになり、私は何度も矢野さんのオフィスからパリに電話をした。91年の夏はパリやフィレンツェに旅行したので、その時にドゥーシェさんにパリのリヨン駅で映画祭カタログ用の写真をもらったはず。
私は1992年に「レンフィルム祭」をやって翌年に新聞社に転職した。それからは俄然忙しくなって矢野さんのオフィスに行く暇がなくなったが、1995年の映画百年の時に山形のオープニングで日本で撮られた33本のリュミエール兄弟の映画を上映することになった。それは12月から日本を巡回する予定の映画100本ほどの一部だった。
日本に最初に来たカメラマン、コンスタン・ジレルの娘がご存命で、山形に招待することになった。私はその手続きをすべてやった。ただそれはドゥーシェさんの時と違って新聞社として映画祭から企画料をもらってやる形を取ったので、ドゥーシェさんの時のように楽しくはなかった。
矢野さんは独特のセンスで「これはいい」と思ったら、どんどん人に頼んだ。お金のことは全く考えていなかった。95年の山形の後に神楽坂で飲んだ時にノートを出されて「いままで古賀さんにタダ働きしてもらった記録はぜんぶ書いています」と見せられた。私は「今回は新聞社から請求書を出したし、給料が増えたので、それはすべてチャラにしましょう」と言ったら彼は大笑いしていた。
それからは試写とか映画館とか映画祭でよく会った。本当に映画好きで、私の学生企画の映画祭で珍しい作品をやると見に来たこともあった。1度だけ、大学の「映像ビジネス」という総合講座での講義を頼んだが「人に教えるガラじゃない」と固辞された。呑気に教授をやっている私をどう思っていたのだろうか。
考えてみたら、92年から15年ほど立て続けに映画祭をやったのは、90年から2年ほど矢野さんのオフィスに通って学んだからかもしれない。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「目まいのする散歩」の実感(2024.09.28)
- 還暦を過ぎて髪は増えるか:その(1)(2024.09.22)
- 咳が止まらない(2024.09.01)
- 腕時計の話(2024.08.28)
- アラン・ドロンのこと(2024.08.21)
コメント