イスタンブール残像:その(2)
オルハン・パムク『イスタンブール』や小笠原弘幸『ケマル・アタチュルク』を読んで個人的に一番驚いたのは、600年間続いたオスマン帝国が、意外に異教徒や外国人に開かれたコスモポリタンな国だったということだ。
パムクは書く。
「わたしの子どもの頃や青年時代のイスタンブールは、コスモポリタンな町という性格が急速に失われた場所であった。ゴーチエは同様な観察をした他の多くの旅行者と同様に、1852年、わたしが生まれる百年前に、イスタンブールの路上ではトルコ語、ギリシャ語、アルメニア語、イタリア語、フランス語、英語(そして(中略)スペインのユダヤ人による中世のスペイン語)が同時に話され、この「バベルの塔」で多くの人々がこれらの言語のいくつかを同時に話したのを聞いた後で、自分が大部分のフランス人のように、フランス語以外を知らないのを多少恥じた」
なぜこんなことが起きたのか。帰国してから私は『ケマル・アタチュルク』を書いた小笠原弘幸がその前に書いた新書『オスマン帝国』を読んだ。本の最初に「オスマン帝国」という呼称について書いてある。確か、私は高校の世界史で「オスマン・トルコ」と学んだ記憶がある。
「この国が国号として「トルコ」という自称を用いることはなかったし、オスマン帝国の歴史上、トルコ系の人々がマジョリティであった時期は極めて短く、多民族からなる帝国としてその歴史を紡いできたからである。帝国臣民を構成する主要な民族だけでも、アルバニア人、セルビア人、チェルケス人、ギリシャ人、クルド人、そしてアルメニア人など、枚挙にいとまがない。/もちろん、ある民族が支配者として統治し、さまざまな他民族が被支配者の立場にあるという国家は他にもあったろう。しかしオスマン帝国の特異性は、支配エリート層をむしろ非トルコ系出身者が占めていたことにある。トルコの貴顕を誇った王家にしても、36代に及ぶ歴代君主のうち、トルコ系の生母を持った君主は初期の数例に過ぎない」
この多民族性、多言語性がオスマン帝国が600年も続いた理由かもしれない。帝国の初期、15世紀初めに「デヴシルメ」という制度ができた。「デヴシルメとは、キリスト教徒臣民の少年を徴用する人材登録制度を指す」「まず、キリスト教徒の農村から眉目秀麗・身体頑健な少年たちが選ばれ、奴隷として徴用される。少年たちはムスリムに改宗させらえたうえでトルコ人の農村に住み、トルコ語を学ぶ。その後のさらなる選別において、とくに優秀な者は宮廷に入り、それに次ぐ水準の者は常備騎兵軍団に、残りの者はイェニチェリ軍団に編入された」
ちなみに「イェニチェリ軍団」は外国人からなる制服を着て武装した近衛兵で、オスマン帝国時代のイスタンブールの名物だったことはパルクの本にも出てくる。宮廷に入った少年で優秀な者は、州総督や宰相や大宰相にまで出世することができたというから、恐るべき制度である。思うに、ギリシャ系とかアルメニア系など出身者同士は自分の言語で話していただろう。そういったさまざまな異民族のコミュニティがあったに違いない。
この帝国にはほかにも驚くべき仕組みがあるが、それは次回。
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