イスタンブール残像:その(3)
先日引用した小笠原弘幸著『オスマン帝国』の中で驚くべきは、「36代に及ぶ歴代君主のうち、トルコ系の生母を持った君主は初期の数例に過ぎない」という部分ではないか。普通なら、外国人の母親で大丈夫なのかと思う。
この本を読んでいくと、スルタンの生母のほとんどは外国人の奴隷だったことがわかる。「奴隷を王子の母とすることには王朝にとってふたつの大きな利点があった。そのひとつは、外戚の排除である」「奴隷は基本的に親族から切り離された存在であり、その外戚が国政につけ入る隙間がない」
「もうひとつは、男児の確保である。イスラム法では四人までの妻帯が認められているが、女奴隷の数に制限はない。そのため、奴隷を用いることで、世継ぎを得る可能性を高めることができた」
36代の生母のうち、自由人であることが確実視されるのは1人で、奴隷でない可能性があるのが3人、残り32人の生母はすべて奴隷だった。「オスマン王家が長命を保った理由のひとつは、奴隷が王の母として選ばれたことにあった」
恐るべき話だが、実はもう1つさらに驚愕の事実が書かれている。それは悪名高い「兄弟殺し」で、最初は14世紀に三代目のムラト一世が反乱を起こした2人の弟の目を潰したことに始まる。「ときには目を潰すのではなく、手を切り落とす、鼻を削ぐあるいは去勢するという例もあった」
15世紀の七代目メフメト2世からは、弟を殺すことが始まる。これは弟の母がジャンダル侯国の王女という名家出身だったことやすでにメフメト2世には子供がいたことによるが、生まれて間もない乳児を殺すとは。ここで慣習ができて16世紀末まで続く。
17世紀初頭に即位したアフメト1世は、その前のメフメト3世が19人の王子を処刑して人々の悲嘆を招いたこともあり、弟を殺さなかった。「殺されなかった現スルタンの兄弟は、宮殿の奥深くに隔離され、そこで外界との接触を絶って育てられた。これを「鳥籠」制度と呼ぶ」
「兄弟殺しの廃止以降、現スルタンが死去あるいは退位したさいは、現存する王族のうち、最年長の者がスルタン位を継ぐことが慣行となった。現スルタンと同世代である王族がイスタンブルに存在することは、つねに君主の「控え」が存在することを意味した――すなわち、反乱者による君主の廃立を容易にした」。これがオスマン帝国の弱小化につながる。
異郷徒の優秀な青年を迎え入れて改宗させて側近とし、外国人の美女(たぶん)を奴隷として受け入れて子孫を作る。弟は目を潰すか殺すか幽閉。このハイブリッドなシステムは王政の継続に極めて有効だが、同時にたぶん世界一残酷である。
私はそんなことは一切考えずに、呑気にトプカプ宮殿を観光した。巨大な「ハーレム」を世界中の観光客と一緒にぐるぐる回りながら、まさかここに外国から連れて来られた女奴隷たちが住んでいたとは考えもしなかった。あるいは宮殿のどこかにスルタンの弟たちが幽閉されていたことも。
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