イスタンブール残像:その(5)
オルハン・パムクは『イスタンブール 思い出とこの町』で「ヒュズン」についてこう語る。「わたしの出発点は、曇った窓を見ているとき、ある子どもの感じる感情であった。今ヒュズンをメランコリと区別しよう。一人の人間の感じるメランコリに対してではなく、何百万もの人間がともに感じるあの暗い感情、ヒュズンに近づこうとしている。町全体の、イスタンブールのヒュズンを語ろうとしている」
その後にイスタンブールで具体的にヒュズンを感じる瞬間をずらりと列挙する。
「早く訪れる夕暮れ、裏通りの街頭の下で手に袋を提げて家に帰る父親たちを私は語っているのである。たびたび起こる経済危機以来、寒さに震えながら一日中たった一人の客を待っている年老いた本屋とか、危機の後で人々が前よりも床屋に行かなくなったとこぼす床屋とか、人影のない波止場に繋いだ古い海峡回遊船を手にしたバケツで洗いながら、片一方の目は遠くの小さい白黒のテレビを見ていて、そしてまもなく海で眠り込む船乗りとか、……」
これが実は6頁も続く。短いのは「カドキョイとカラキョイの間のフェリーが夜ともすぼやけた灯りとか、道で誰かにティッシュを売ろうとする子供たちとか、誰も見ようとしない時計台とか」。長いのは数行にわたる。要するにイスタンブールのどうしようもなく情けない日常のようだ。
私がイスタンブールで過ごしたのはわずか3日だから「ヒュズン」を感じる暇はなかった。モスクをいくつか見てトプカプ宮殿や地下宮殿、ボスポラス海峡の遊覧船、ミシュラン掲載のレストランなど観光ばかりしていたのだから。目の前にいるのは、ほぼ外国人観光客ばかり。
少しでも感じたとしたら、アジア側のカドキョイ地区かもしれない。前に書いたトルコの旗を売る男の風情。誰も買う様子はないのにあちこち歩きながら僕にまで声をかけた。有料のトイレの前に暇そうにたむろしていた4、5人のおじさんたちの寂しさ。彼らは利用者から料金(10トルコリラ=40円)を受け取ったがやる気がなさそうで、100リラ札を出したら慌てていた。
観光船ではなく、一般の人々が乗る古いフェリーには全体に「ヒュズン」があった気がする。カドキョイからカラキョイ行きのフェリーに乗っていると哀愁を感じさせる音楽が聞こえると思ったら、若い男女が弦楽器を演奏していた。これは何ともいい雰囲気で降りる時に小銭を置いたが、その時に彼らが盲目と気がついた。その佇まいは「ヒュズン」かも。
ボスポラス海峡をめぐる観光船のエミノニュの船着き場で「ボースポラ!」と繰り返し大声を挙げて宣伝する船長帽をかぶった老人が、もの悲しかった。彼は私のように乗る客を見つけるとチケットを売り、再び「ボースポラ!」と叫ぶ。1時間半で戻ってきた時もそこで声を張り上げていた。
あるいはどこにでもいる焼き栗と焼きトウモロコシを一緒に売るおじさんたち。暑かったせいもあって買う人はいなかったが、彼らは全く表情を変えずにひたすら焼いていた。これまた「ヒュズン」だろうか。
「イスタンブール残像」はこのあたりでおしまい。
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