『目まいのする散歩』を読んで
先日、道を歩く時に目まいがしたことを書いて武田泰淳の『目まいのする散歩』に触れたが、実際に読んでみた。手軽な文庫版を買って読むと、これが妙におもしろい。小説家が夫婦であちこちを散歩する話である。
読んでいると、80代後半の作家の脱力系の自由な文章のように思えるが、巻末によればこれを『海』に連載したのは1974年9月から75年4月まで。つまり1912年2月生まれの泰淳の62歳から63歳までということになる。
何と今の私よりも少し若いか同じということになる。いくら昔といっても1970年代なのだから、そんなには違わないはずだ。この年で散歩が日課とは何ともすばらしい。毎日バタバタと大学に行って、今は東京国際映画祭に無理してあくせく通っている自分がバカみたいに見える。
「東京にいるとき、私の散歩する場所は、明治神宮、武道館、代々木公園の三つに定められている。その三ヶ所ともに駐車場があり、車が走っていず、坂がない平地だからである」「上にあげた三つの場所は、どれも私の現住所である赤坂から十分せいぜいでゆける。車を降りて歩き出せば、そこが申し分のない散歩の範囲である」
読み進むと「車」を運転するのは妻で、作家はそれに乗って駐車場から降りてスタスタ歩くだけのようだ。私にとって「散歩」という言葉は、若い頃に聞くとそれこそ目まいがした。散歩をする暇などは絶対にないと思っていたから。「ちょっと散歩しよう」などと言われると頭に来た。
泰淳の書いた三ヶ所で少しくらいわかるのは武道館か。このあたりはコロナ禍で自宅に籠っていた2020年の春に靖国神社や武道館あたりを散歩した。私の場合は自宅から30分ほど歩くと、あのあたりに着いた。しかし30分は少し長いので、もっと近い江戸川公園や茗荷谷の方面をよく歩いた。
自分のなかで「散歩」が受け入れられるようになったのは15年半前に大学に移ってからだろう。池袋での混雑する乗り換えを避けて、直行で少し遠い駅に着き、大学まで10分強をあるくようになった。さて泰淳に戻る。
「三度めか、四度めに立ち上がったときに、めまいが消えたのえ、坂道をひき返そうとして、十歩ばかり歩くと、また、めまいがきた。出来るだけ、ゆっくりと右に左に傾きながら歩いた。そしてまた、しゃがみこんだ。今度は、寝ころんだりしないで、どうやら保つことが出来た」
これは本当に「目まいのする散歩」だ。幸か不幸か、まだこの状態には至っていない。
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