イスタンブール残像:その(4)
さてここで、(1)に書いたボスポラス海峡のあちこちにはためいていた巨大な赤いトルコの国旗について考えたい。私が察するに、あれは現在のエルドアン大統領の方針ではないか。愛国心を高めるために、国の機関のあちこちに立てているとしか思えない。
前に書いたように、1923年にトルコ共和国を作ったケマル・アタチュルクはあらゆる面で西洋化を推進した。アラビア文字だったトルコ語をラテン文字に改め、婦人参政権を認め、トルコ式の帽子を禁じた。
トルコ語をラテン文字にするには50年はかかると国語学者に言われたが、たったの1年で成し遂げた。そのようにして西洋諸国の理解を求めて、トルコが各国に分断支配されるのを防ぎ、最低限度の国土を守ったのがアタチュルクだった。
東ローマ帝国時代のギリシャ正教の大聖堂だったアヤ・ソフィアは、15世紀にオスマン帝国になるとモスクに改装されたが、アタチュルクはこれを「博物館」と改めて、宗教色を無くした。ところが2020年、エルドアン大統領はモスクの機能を復活させた。現在は入口が有料の観光用と無料の礼拝用に分かれており、両方の役割を果たしている。
このようにエルドアン大統領は、100年前に西洋に向いたトルコにある種のナショナリズムを復活させようとしているのではないか。巨大な旗はその象徴のような気がしてならない。これはトルコ人留学生に聞いてみないとわからないが。
ノーベル賞作家のオルハン・パムクのエッセー『イスタンブール』にはもちろんエルドアン大統領のようなナショナリズムはないが、かつての巨大なオスマン帝国に対するノスタルジーのようなものが随所に感じられる。前に引用した、多言語を操る人々が行き来していたイスタンブールを甘美な過去として想像するのは、まさにこれだろう。
彼の本でそれが一番現れるのは、「ヒュズン」をめぐる章ではないか。「10 ヒュズン、メランコリ、悲しみ(トリステス)」という章で、「ヒュズン」が今もイスタンブールを支配していることを説明する。これはメランコリや悲しみに近いが、少し違うようだ。
「子ども時代のイスタンブールがわたしに引き起こした濃厚なヒュズンの感情の根源を感じ取るためには、歴史を、オスマン・トルコの国家の崩壊の結果を見る一方で、この歴史が町の”美しい”光景や人々に反映した形を見る必要がある。ヒュズンはイスタンブールにおいて、この地方の音楽的感情であり、詩にとっては基本的な言葉であり、同時に人生観や、精神状態であり、同時に人生観や、精神状態であり、この町をこの町としている物質の作り出したものである」
「ヒュズン」はなかなかわかりにくいが、ある種の喪失感ではないか。これについてはもう1度書く予定。
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