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2024年11月14日 (木)

映画ばかり見てきた:その(1)

もう15年以上大学で映画を教え、定年まであと2年と少しになった。若い頃から大好きだった映画を仕事にできて、本当に運がよかったと思う。しかし同時に、これでよかったのかと考えることもある。

世界ではパレスチナやウクライナで毎日何人も殺されており、日本では格差の拡大が進み、高齢化や少子化が問題を複雑化している。昔に比べて、普通に働いても生きていくのが難しいという人々が明らかに増えていると思う。

そんな中で私は60歳を過ぎても毎月給料をもらいながら、学生に映画を見せて論じている。あるいは今やここしか書くあてもないのに、東京国際映画祭まで出かけて、好き勝手に点数まで付けている。映画祭で1日に3本も見ると、ほぼその日がつぶれる。いったい自分は何をしているのだろう。何のために、誰のために。

映画はある一定の量を見ると、「映画がわかる」状態になる。仮に500本としよう。個人的な好き嫌いの問題はあるが、たくさん見たら映画の評価が似通ってくる。いわゆる「通好み」になる。例えば東京国際映画祭の「デイリーニュース」の星取表で大久明子監督や片山慎三監督の新作の評価が低すぎる記者は、まだ「素人」だとすぐわかる。

500本という本数は20年間、月に2本以上見ないと達成できない。「普通の映画好き」は月に1本かふた月に1本なので、一生「素人」のままで終わる。問題はそれで何が悪い、ということだ。むしろその方が大半の映画を楽しめて幸せだろう。「通好み」になると見た映画の文句ばかり言うから、むしろ不幸かもしれない。

私は大学生の半ばから、毎年膨大な数の映画を見てきた。怖くて数えられないが、ビデオや配信も含めたら1万本を超すかもしれない。大学生の時にパリに1年留学した時は、500本以上見た。今でもスクリーンだけで年に100本は超す。「楽しい毎日」かもしれないが、何という「時間の無駄」と思わないこともない。

毎朝、朝刊を読みながら数々の事件や問題に触れると、映画をそんなに見る時間があったらもっと社会に役に立つことをしたらいいだろうと考える。映画ではなく、政治学や経済学や社会学の先生だったら、もっと社会に「貢献」できるのではないか。私が人生を間違ったか。せめて哲学や文学だったら、少しは普遍性があるのでは。

とりあえずの言い訳は、映画を仕事にしたい若者は「素人」では困るので様々な見方を教えて彼らを育てているということか。あるいは本を書くことで映画の深い見方を広めることか。それにしても、今頃になってどこか後悔している。

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