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2024年11月16日 (土)

田中一村展の混雑に考える

上野の東京都美術館で「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を見た。私はかつて10年以上美術展の企画の仕事をして『美術展の不都合な真実』という本まで書いたにもかかわらず、この画家は名前さえ知らなかった。

それがとにかく大入りらしい。かつて配給会社を経営して今は小説家、荒井曜として活躍してる友人が、最近『田中一村 かそけき光の彼方』という小説を出した話を聞いた。さらに「朝日」時代の先輩、長浜幸子さんが今月に急死されたが、その直前に見ようと友人(この方も先輩)と予定を立てていたのが「田中一村展」というのも、その先輩からのメールで知った。

そんなこともあって、夜間開館の昨日に行ってみた。夕方17時前に会場に着くと入場制限はなかったが、とにかく混んでいる。この画家は1908年生まれで、映画監督で言えば1905年生まれの成瀬巳喜男と1910年生まれの黒澤明の中間といったところ。あるいはポルトガルのマノエル・デ・リヴェイラが同じ歳。

私にとっては監督と比べると、その作風を考えて一挙に時代の感覚がわかってくる。さてこの田中一村は神童である。父親は彫刻家で8歳で描いた南画風の色紙がほぼ完璧の域で、とにかく10代の南画がすさまじい。東京美術学校に入るが、経済的理由で2ヵ月で退学したという。

ここからがたぶん苦労の始まりで、南画をやめてわかりやすい絵に進む。あるいは屏風画を描く。つまりは売れる絵を描かざるをえなかったのだろう。写真をもとにした肖像画まである。そして1938年、30歳の時、既に両親、弟を亡くして、姉、妹とともに千葉に移り住む。それからは周囲の風景画、障壁画、木彫りなどさらにわかりやすくなる。

帯や日傘の絵などもあって、生活に苦労したのがよくわかる。院展や日展に出しても落選続きだったらしい。不思議なのが戦争を感じさせる絵が一切ないことで、展覧会は何事もなかったかのように、同じような絵が続く。

1947年の《白い花》が公募で唯一入選した絵という。確かにこの屏風はあまり媚びた要素がなく、高いレベルに達している。しかしその後はさえのない、ごく普通の風景画が多い。祖母が亡くなり、妹が嫁ぎ、1958年、50歳の時に奄美大島に移り住む。しかし食えなくて2年で千葉に戻り、1961年に再度奄美へ。

今度は紬工場で働きながら絵を描く。お金を蓄えて1967年からは絵に専念。この頃描かれた縦長の絵は異様な迫力がある。これが10点ほど並んだ最後の部屋は圧巻だ。たぶん苦労した人生の軌跡と最後の奄美での大変身というドラマが人々を引き付けるのだろう。

個人的には異様に混雑する観客の中で、最後まで冷めた眼で見ていた。12月1日まで。

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