映画ばかり見てきた:その(2)
昔、フランスの記号学者で小説家のフィリップ・ソレルスが「映画で感動するというのは、大半は作り手の計算に乗せられることで、私は今はその「操作されている」感じが嫌で映画に行かなくなった」と語っていた。
調べてみたら『ゴダール/ソレルス』(1985)という対談で語ったようだ。たぶん留学中に見たのかもしれないが、今でも覚えているということは、その言葉に考えることがあったに違いない。
人の心を動かし、満足させるために作られた映画は多い。映画が始まると主人公に自分を重ね合わせてその世界に没入し、感情移入が始まる。そうしてその幸福や成功をわが事のように喜び、悲劇に涙する。もちろん優れた監督や作り手はその「操作」が見えないように作り込む。
それでも映画を見続けて「素人」の段階から脱すると、「感情移入」に飽きたらなくなる。何を言いたいのかわからない、妙な映画も好きになる。私の大学の授業での役割は、普通の学生が見るようなメジャーな映画だけではなく、映画には昔からいろいろな表現があることを教えることかもしれないと考えている。
教え始めた頃は、できるだけたくさんの映画のハイライトシーンを見せて、「クロース・アップ」とは、「ロング・ショット」とは、などと教えていた。ところが数年たったら、せっかくこちらが多くの映像を準備しても、その詰め込んだ内容に学生は乗ってこないことが多いことに気がついた。
つまり、私が名場面だけを厳選して見せても全編を見ていない学生には伝わらないという当たり前のことだった。そこでできるだけ全編を見せるようにした。これが90分の授業だと難しい。2コマ取れる授業では、全部を見せることを原則とした。
しかしそうすると、寝る学生が出てくる。「感情移入」できない、ドラマが見当たらない、物語に進展がないといった映画は、慣れていない学生は寝てしまう。そのうえ真っ暗にして上映するから寝ていてもなかなかわからない。
例えばジャック・タチの『ぼくの叔父さん』(1958)やジャック・ロジエの『アデュー・フィリピーヌ』(1962)は、私は大傑作だと思うが、初めて見る学生にはひたすら退屈である場合が多いようだ。これはどうしようもない。それでも2度目に見ると面白さがわかってくるよ、と言うけれど。
果たして、こういう映画を楽しめることに意味があるのかどうか、自分でもわからない。確かなことは私自身が好きな映画は、何度見ても益々好きになる、ということだが。
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