少しだけ東京国際:その(2)
東京国際映画祭といえば、今年のメインビジュアルはいかにもヘンだ。まるで女性誌の表紙風だし、あまりに着飾っているので誰も菊地凛子だとはわかるまい(私もわからなかった)。これは数年前から同じで、これだけで観客を失っているのでは。
広告やデザインの観点から見ると、最近の東京国際映画祭は全くダメである。地下鉄の窓上や駅張り広告にはポスターなどと同じイメージのビジュアルで、大きく「TOKYO FILM」と書かれているが、普通の人には何のことかさっぱりわからないだろう。デザイン的には昔、浅葉克己さんがデザインをやっていた頃の方がずっとよかった。
昔からひどいのが、会期前から映画館で流れるコマーシャルで、わざと(?)ヘタな英語で「トーキョー・インターナショナル・フィルムフェスティバルー」と叫んで、英語訛りのような嫌な感じの日本語で紹介が始まる。まともな美的感覚があれば、近づきたくないと思うだろう。
さらに昔からで言えば、各作品の上映前の先付映像が黒に白抜きで「東京国際映画祭 正式出品」とあるだけでつまらない。ちなみにこれはプレス&業界上映では流れない。カンヌだってベネチアだって個性的な動画が(プレス上映にも)流れて楽しいのに。山形国際ドキュメンタリーでさえも、毎回違った楽しい動画を見せてくれる。
たぶんプログラミング・ディレクターの市山尚三さんは作品を選ぶことにしか関心がないのかもしれないが、毎年邦画大手から何人も派遣されている宣伝や運営の担当者はどうして気づかないのか。日本はデザイン大国なのに、これは本当にもったいない。
作品について触れると、2本の邦画がおもしろかった。「コンペ」の吉田大八監督『敵』は、77歳の定年後の元大学教授の日々を自宅を中心に白黒で見せる。フランス演劇が専門で講演の依頼が来たり、教え子の美女の編集者が現れたり。あるいは行きつけのバーで立教大学で仏文学を学ぶ女子大生と出会う。
そこに次第に妄想が混じり始めると思うとそれは夢で、亡くなったはずの妻も含めて3人の女たちの間を彷徨い、そしてまた朝起きる。自宅の近くでは「北」から敵が攻めてきており、隣人は銃に倒れる。それまた夢か。前半の老年の日常のわからなさの機微が、後半の夢落ちだらけでやや失速するけれど、相当の意欲作。3.5点。
「アジアの未来」部門の蔦哲一郎監督『黒の牛』はさらなる謎だった。台湾のツァイ・ミンリャン監督作品にいつも出ているリー・カンションを明治時代の東北に据え、言葉の通じない男が牛と出会い、悟りを開く過程を9章で見せる。これまた白黒の映像でまるでツァイ・ミンリャンかあるいはむしろタル・ベーラを目指したかのような映像だ。4点。
正直よくはわからないが、禅問答のような日々から最後の9章で70㎜のカラーになった時、声を挙げそうになった。この力業は「コンペ」に出してもよかった。
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