高階秀爾さんの追悼文に考える
昨朝の「朝日」で高階秀爾さんの追悼記事を神戸大学教授の宮下規久朗さんが書いていて、あっと驚いた。宮下氏は東大の高階氏の教え子だし、彼の近年の旺盛な著作活動からして普通に言えば何も異存はないはずだが、個人的におかしかった。
それというのは、東京都現代美術館の学芸員時代に「キクちゃん」と呼ばれていた宮下さんを知っているから。当時の彼はいつもアロハシャツなど派手ないでたちで、手や首に金属類やスカーフを巻いて、ちょっとしたヤクザの子分のような感じだった。世の中すべてに不満で、特に権威的なものが大嫌いだった。
酔うとすぐに高階さんの話になり、「秀ちゃん(高階秀爾さんのこと)はたくさん本を書いて啓蒙的な意味では偉いけど、全くおもしろくない」という意味のことを言っていた。彼とは実現しなかったバルチュス展の準備を一緒にしていたが、とにかく頭が切れて優しくて実に楽しかった。
さてその「キクちゃん」の「秀ちゃん」への追悼文だが、高階氏の著作を次々と解説しながら意義を述べていた。それは一言で言えば「先生はつねに西洋とは異質な感受性を持つ日本人が美術とどう向き合い、理解すべきかを考えてきた。それを明晰な文章によって説きあかし、美術の知的な魅力を普及させてくれた」
この追悼文を読みながら、私はふとある事実に驚いた。私は高階秀爾さんの本を一冊も読んでいない、ということだ。美術展の仕事を20年ほどやって、しまいには「朝日」で美術記者の真似事までやったのに、何も読んでいないのだ。美術関連の本は何百冊と持っており好きな本も多いのだが、そもそも彼の本は買ったこともない。
高階さんは美術展の現場にいた頃はよく近くで見かけたし、美術記者になってからはお会いしたり電話をかけてコメントをもらったこともある。フランス大使館の夕食会などでも何度も会っていた。奥様や娘さんと話したこともある。ところが彼の本は読んだことがなかった。
私は長年美術の仕事をしてきたが、実は美術の授業を受けたことは一度もない。パリを始めとして欧米の大都市に何度も行って、いわゆる「名画」は死ぬほど見たが、一度も真面目に勉強したことはなかった。展覧会をやるごとに関係の本は読んだが、日本についても西洋についてもきちんと美術史を学んでいない。
今こそ高階さんの本を読むべきだと思って、昨日の新聞を開いた。あれ、ないなと思ったら、それは追悼の形は取っているが、読書面の記事だった。だから宮下さんは著作の紹介をしたのであった。何はともあれ、昨年カラー版になったという岩波新書『名画を見る眼』正・続から始めたい。
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