ドキュメンタリーを追う:その(1)ワイズマンからランズマンへ
やはりドキュメンタリー映画はおもしろい。現在開催中の学生企画の映画祭では15本のうち、9本がドキュメンタリーだ。「声をあげる」というテーマで100本くらいから選んでいくうちに、やはり本物の声というものに行きついたようだ。
さて、私はその映画祭の前日に始まった「フレデリック・ワイズマンのすべて」に出かけた。実は彼の初期の作品は全く見ていない。まずは1967年制作後、91年まで上映が禁止された第一回長編『チチカット・フォリーズ』を見た。
マサチューセッツ州にある精神異常犯罪者のための矯正院を描いたものだが、確かに上映禁止も理解できるくらい凄まじい描写が続く。すべての部屋には鍵がかかり、散髪や入浴などに行く患者はだいたい全裸で歩かされる。食事をしない患者には無理やり鼻からチューブで流し込む。
明らかに精神疾患があるような患者もいるが、大半はどう見ても普通そうな男ばかり。そのうち1人がここにいると頭がおかしくなりそうだから出してくれと訴える。煙草を口に加えてスパスパ吸いながら見ている医者は、全く相手にせず「やはりお前はダメだ」。
患者も医者も職員も、カメラはまるで透明人間のように近づき、すべてを平等に写す。普通のドキュメンタリーだと、これだけ接写だと写る人物がカメラマンに話しかけたりすることもよくあるが、この映画では一切ない。まるで神がすべてを見通すように、あらゆる空間にカメラが寄り添う。
驚くのは、彼はこの作品から最新作の『至福のレストラン 三ツ星トロワグロ』(2023)まで50年以上この手法を続けていること。最近では『チチカット・フォリーズ』のような告発型はなくなったが、それでもどの作品にもどこかに鋭い問題提起が見いだせる。
学生の映画祭で最初に見たのは、クロード・ランズマンの『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001)。これは学生と一緒にブルーレイで見ていたが、やはりスクリーンでDCPで見ると違う。ポーランドのソビブル収容所で反乱を起こして脱出した男、イェフダ・レルネルの回想を撮影したものだが、これが見ごたえがある。
前半は彼がワルシャワのゲットーからあちこちに連行されたり逃げ出したりするうちに、ソビブルにたどり着くまでを語る。彼の声だけが聞こえ、映画はその道行きの現在の光景を見せてゆく。ところが見ていると、自分が連行されて列車に乗せられ、森の中の見知らぬ駅に着くような気がしてくる。
ポーランドの美しい夕暮れを、まるで強制収容所に向かう自分が見ているような気分になる。映画には当時の映像や写真は一切使われないし、ドラマのようなパートもない。あくまで名手、キャロリーヌ・シャンプチエが撮る現在の風景とレルネルの姿に彼の声や周囲の音が入るだけ。観客の想像力だけで映画を成立させる凄まじい試みだ。
実に得意そうにナチス兵の殺人を語るレルネルの表情は、あのポーランドの深々とした森の最後の夕日と共に、たぶん一生忘れられない。
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