「作家主義」はペテンか
前にここで書いたように、一昨年から昨年にかけてフランスの映画界ではフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨンなどのポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが、次々と過去のセクハラで告発されている。その中心となった女優のジュディット・ゴドレーシュは去年のカンヌでそれを取り上げた映画を発表して話題になった。
前にここで書いたように、一昨年から昨年にかけてフランスの映画界ではフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨンなどのポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが、次々と過去のセクハラで告発されている。その中心となった女優のジュディット・ゴドレーシュは去年のカンヌでそれを取り上げた映画を発表して話題になった。
今朝ここにアップしたものがこのブログを運営する「ココログ」の不手際で消えてしまったので、別の文章を書く。もしそれが出てきたら、その時点でアップしたい。さて小田香特集である。恵比寿映像祭で『母との記録「働く手」』を見て衝撃を受けたので、特集にも出かけた。
カンヌで審査員特別賞を受けたイランのモハマド・ラスロフ監督『聖なるイチジクの種』を劇場で見た。イランで有罪判決を受けて国外に逃亡し、28日かけてたどりついたカンヌで受賞したという話を聞いて、とにかく見たいと思った。この20年ほどのイラン映画は秀作が多いし。
すべてを忘れて映画に集中する体験をしたければ、『セプテンバー5』を見たらいい。ティム・フェールバウム監督の映画は初めて見るが、とにかく95分間、最初から最後まで画面から目が離せない。
恵比寿映像祭は終わったが、小田香や小森はるかの映像を展示した「コミッション・プロジェクト」は3月25日まで開催中だ。これは5人の専門家(?)が選んだ日本在住の作家に新作を委嘱するして展示するシステムのようだ。今回は4人が選ばれており、ほかには永田康祐と牧原依里。
もうとっくに終わったが、終盤に見た2本のホラー映画についても触れておきたい。チャノ・ウエルタ監督の『魔女の鏡』(1960)と『アルカルダ 鮮血の女修道院』(1977)だが、それぞれ75分、78分という短さがいかにもジャンル映画らしい。
今日まで開催の東京都写真美術館を中心にした「恵比寿映像祭」に行った。今年で17回目で毎年意味不明のテーマ(今年は「Docsーこれはイメージです」)を掲げたこの無料展覧会が私は苦手だが、今回は小田香と小森はるかの作品が抜群によかった。
これまた1年以上放っておいた本、伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史 1910-2023』を読んだ。もともと「ヤクザ映画」自体をあまり見ていなくて、山根貞男さんや蓮實重彦さんがほめる東映の任侠映画を十数本見たくらい。
島崎今日子著『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』をようやく読んだ。『週刊文春』の連載の時に気になったので1年以上前に買っていたが、そのまま放っておいた。ジュリーという存在は、私にとってはどこかピンと来なかったからかもしれない。
昨日終わった「メキシコ映画大回顧」だが、終盤にようやく暇ができて見に行ったのは「ルベン・ガメス」作品集。チラシに「1965年に「ヌエボ・シネ」の流れを汲み、保守的な映画産業の刷新を問いかけるかたちで始まった「第1回実験映画コンクール」。 そこで『秘められた公式』が一位に輝いたルベン・ガメス (1928―2002)の4作品を上映」と書かれていた。
ノーベル賞を取った韓国の女性作家、ハン・ガンは、最近『すべての、白いものたちの』と『少年が来る』を読んだが、その詩的で内的な世界が妙に気になって『菜食主義者』を読んだ。今回はこれまでの2作と違ってずいぶん物語性が強く、あっと言う間に読んだ。
死ぬと決めた日の前夜、親しい友人とバスター・キートンの『セブン・チャンス』を大笑いしながら見る。そして翌日、黄色の上下に身を包み、テラスのソファで静かに眠る。あんな死に方ならいいなあ。先日、映画館で見たペドロ・アルモドバル監督の『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』のことだ。
このブログが便利なのは、あとから自分がいつ何をしたかがわかること。ちょうど日記や手帳を見るように、見た映画や展覧会、読んだ本などがいつなのか、ほぼわかる。この歳になると見た映画さえもさっぱり忘れてしまうから、自分でブログ内検索をすることも多い。
映画の理論系専攻を希望する学生が増えたと書いた。これにはもう1つ理由がある。理論系では同時に「映画ビジネス」も教えるからだ。大学で「映画ビジネス」というのは、普通に考えたら教えるのが一番難しそうだ。
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