恵比寿映像祭の小田香と小森はるか
今日まで開催の東京都写真美術館を中心にした「恵比寿映像祭」に行った。今年で17回目で毎年意味不明のテーマ(今年は「Docsーこれはイメージです」)を掲げたこの無料展覧会が私は苦手だが、今回は小田香と小森はるかの作品が抜群によかった。
実を言うと映像展示でそれぞれの映像を展示室を行きつ戻りつしながら見たが(会場には上映分数さえも書いていない)、どちらも途中からしか見られなかったし半分明るいところで観客が自由に出入りするので落ち着かなかった。後で調べたら1階ホールで普通に映画として上映するとわかり、日を改めてまた見に行った。
暗闇の中の大きなスクリーンで見て、この二人のように本物の映画を作る監督の映画は、「映像展示」には向かないと思った。小田香の『母との記録「働く手」』は、中年女性がぶつぶつ話しているだけだ。彼女は監督である娘に頼まれて自分のこれまでを話し始める。
冒頭にベランダで遠くの雷の音の大きさに驚く。これは展示室では聞こえなかった。そして何やら鼻歌を歌ったり、豚肉を巻いた料理を作ったり、小さな人形を削ったりしながら話す。コロナ禍でカラオケ喫茶を閉じたこと、その前は介護の仕事をしていたこと、その前は故郷の長崎で働いていたこと、高校生になる時に名古屋で働きながら学校に行って、卒業後大阪で働いたこと。
長崎に戻ってからは役所で働いていた。それから電話交換手をした。ヒモで繋ぐタイプの時代である。そのあたりに結婚したようで、それからだいぶたってたぶん夫と別れてから介護職に就いたようだ。娘の話をするが、「娘というか、息子というか」と何度か口にする。そして誰かと話す。どうも娘との会話で、娘が監督という不安定な仕事をしているのが心配のようだ。
ある時から、彼女が台所の奥で料理を作っているのが小さく見える。手前には白いカーテンが揺らめく。遠くの母の存在の確かさ。そして急に電車の中にいる光景が写る。その瞬間の鮮烈なことといったら。母は車窓に肘をついて、ゆっくり休んでいるようだ。そしてまた家の中にカメラは戻る。考えてみたら、物音は画面と合っているが会話と口は全く合っていない。
浮遊する不思議な声は再び鼻歌を歌いだす。するとそこに小さなもう1人の声が混じる。たぶん娘の声だが、そのか弱い2つの声の重なりに泣きそうになる。母の手はゆっくりと人形を削っている。
寡黙で我慢強そうな母親、人生を耐え抜いてきた母の姿に、私は自分の亡くなった母親を思いだした。私の母もあのように来るものを拒まず、なるように任せながらもいつも働いていた。30分ほどの映像でこの監督のなかでは力を抜いたスケッチのような小品だろうが、私には限りなく深く強い印象を残した。
これは何度でも見たい。上映は昨日で終わりだが、これを展示している3階の展示室だけは3月23日まで見られる。小森はるか作品については後日(たぶん)。
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