「メキシコ映画大回顧」:その(4)
もうとっくに終わったが、終盤に見た2本のホラー映画についても触れておきたい。チャノ・ウエルタ監督の『魔女の鏡』(1960)と『アルカルダ 鮮血の女修道院』(1977)だが、それぞれ75分、78分という短さがいかにもジャンル映画らしい。
『魔女の鏡』はチラシではフランスで同じ年に作られた「『顔のない眼』を想起させる」と書かれていたが、私にはジャンル映画的ないい加減さというか遊び心がイタリア初のホラー映画と言われる『吸血鬼』(1957)を思い浮かべた。『顔のない眼』も狂った医師がある女性の皮膚のために別の女性を殺す話だが、『魔女の鏡』はそこに迷いがない。
夫エドゥアルドは妻エレナに毒薬入りのミルクを飲ませるが、あっという間に死んでしまう。そして次のシーンでは愛人だった若い女デボラを家に連れてきてメイドのサラに新しい妻として紹介するから展開は早い。ポイントはこのサラが実は魔女でエレナの復讐を助けること。
そもそもサラは冒頭に出てきて、エレナ(左頬のホクロの感じがちあきなおみに似ている)に鏡に夫の愛人を写して見せる。エレナは不幸が起こることをわかっていて運命を受け入れる。何も知らずにやってきたデボラは魔女によって暖炉で全身に大やけどをさせられる。
彼女の焼けた顔や手の皮膚を補うために、外科医であるエドゥアルドは死体留置所や葬儀屋から若い女性の死んだばかりの体を盗み出し、その皮膚をデボラの顔に貼り付ける。しまいには実は死んでいなかった女性の手を切り落としてデボラにくっつける。
しかし手術はうまくいかず、サラはエドゥアルドの助手をたきつけて警察を呼ぶという次第。皮膚を再生するためにほかの娘の皮膚を貼り付けるという点が『顔のない眼』に近いが、こちらはどこか喜劇風でホイホイ進む。そもそも夫が外科医というのは途中までわからなかったし。
フアン・ロペス・モクテスマ監督の『アルカルダ 鮮血の女修道院』はさらにB級感が強い。まず、すべてが英語であることに驚く。ある女が娘アルカルダを修道院に入れるようジプシーに懇願し、10数年後にアルカルダはそこに新しくやってきたジュスティーヌと仲良くなる。
しかし2人は悪魔にさらわれて全裸の儀式に参加して修道院に戻ってくる。修道院ではほかの修道女たちも誘おうとするが、院長や神父や医師が阻止する。悪魔があやつる全裸のジュスティーヌを神父は血だらけにして殺すが、アルカルダは逃げて修道女たちと戦う。
途中から誰が見方で敵かわからなくなるが、2人の娘が裸で血だらけになり、さらには焼き尽くされる。そして大混乱の中で磔刑のキリスト像が焼かれて映画は終わる。悪魔にあやつられる娘のアルカルダという名前に、どうしても「アルカイダ」を連想してしまった。
これは明らかに1970年代に世界共通のエロ・グロ趣味だろう。イタリアの「モンド映画」やアメリカの『エクソシスト』などがそうだし、日活ロマンポルノや『仁義なき戦い』もその流れかも。革命の時代の終焉とテロに加えて映画産業の凋落がぶつかった結果なのか。
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