『ゆきてかへらぬ』に考える
根岸吉太郎監督の『ゆきてかへらぬ』を劇場で見た。昔と違って今は封切り後ひと月たつと上映館や時間が少なくて探すのに苦労したが、小林秀雄と中原中也の話だし、久しぶりの根岸監督なので見たかった。
最初に昭和初期の京都の街並みが出てきて驚く。広瀬すずが2階の窓から橙の柿を拾い、赤い傘を差した中原中也が歩く姿を3階あたりの真上から撮るショットに惚れ惚れする。これはと姿勢を正して真剣に見始めると、市内電車を走らせ、遊園地を再現し、雪や桜を華麗に散らせてその贅沢さに目をみはる。
さらに松竹蒲田撮影所がいい感じで出てくる。入口の赤いレンガの門からしてそれらしい。今どき、戦前をこれだけ再現できる監督はもはやいないだろう。小林秀雄を演じる岡田将生が柱時計を庭に投げ、さらにそこ広瀬すずが白磁を投げるシーンに震えた。もちろんCGもあるのだろうが、お見事。
そんなことを考えながら見ていたが、物語にはほとんど入っていけない。なぜ広瀬すず演じる長谷川泰子と中原中也(城戸大成)は愛し合うようになったのかさっぱりわからない。単なる偶然で同居を始めたようにしか見えない。そもそも城戸大成は詩人にはさっぱり見えない。広瀬すずが不思議な魅力を放つのはよく描けてるが。
それに比べたら岡田将生の小林秀雄はずっとリアリティがある。彼が中原の詩をほめたり壺を論じたりするのが、きっちりと現実味が漂う。それにしても長谷川泰子を好きになる理由というか気持ちはあまり伝わらない。
結局長谷川泰子は中原を捨てて小林と暮らし始めるが、そこに中原が遊びに来る。とんでもない修羅場のはずだが、そうでもない。長谷川が苦しんでいるのはわかるが、どうしても単なるわがままな女にしか見えない。頭がおかしくなった中原が乳児用のミルク瓶をすするシーンだけは強烈だったけれど。
中原の葬式のシーンも、どこにあんな斎場があるのか何とも風情があった。そのうえ海のそばで、小林と長谷川が火葬の煙を見るのも絵になっている。だけど何かが足りない。大学で仏文学を専攻した文学青年の私には、早逝する富永太郎や東大の初代仏文科教授の辰野隆が出てくるのも嬉しかったが、たぶん一般的にはこうした点描のシーンはあまり意味がないかも。
そんなこんなでたっぷり雰囲気を味わいながらも、肩透かしを食らった気分になった。かつて『遠雷』(1981)で新しい日本の現実を描く監督として時代の最先端だったこの根岸吉太郎は、今や古い日本を美的に見せる一世代も二世代も前の世代の監督になったのかもしれない。
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