ミロを見ろ
昔、「ミロを見ろ」というオヤジギャグがあった。東京都美術館で始まったばかりの「ミロ展」は、久しぶりにその言葉を思い出させたくらい「見るべき」展覧会だ。100点ほどだが、20代半ばの初期作品から晩年の大作までまんべんなく並んでいる。
作品は本当に世界中から来ている。バルセロナのミロ財団が多いが、マドリードのレイナ・ソフィア(国立ソフィア王妃芸術センター)やパリのピカソ美術館、あるいはMOMA(ニューヨーク近代美術館)、フィラデルフィア美術館。悪名高きナーマド・コレクションも多い。
たぶん20近い世界中の美術館や画廊から借りてきたのだろう。元展覧会屋としてはその労力たるやいかばかりかと思う。輸送費に保険料、クーリエ(作品に随行する学芸員)などの費用を考えただけで目まいがする。
しかし展覧会を見るとその価値は十分にあったとわかる。何よりも初期がおもしろかった。20代の頃の極めて写実的な自画像や風景画にはびっくりだが、よく見ると細密画のような妙な感じが漂っている。田舎の風景の細部の草木が模様のようで怪しげだ。
この頃はモンロッチという田舎で療養生活を送っていたようだが、調べてみたらバルセロナに近い海岸沿いの町だ。そこから1920年にパリに行くと一気にトーンが変わる。既にパリで活躍していたピカソやシュルレアリスムの影響を受けて、自由な絵が始まる。レイナ・ソフィアの《頭部とクモ》(1925)なんて灰色のバックに頭と蜘蛛の巣を黒い線で描いただけだが、実に深い。
MOMAの《オランダの室内Ⅰ》(1928)はダリを思わせるシュルレアリスムとミロらしい色彩豊かな遊び心が加わって、必見の大作だ。青や灰色の背景に黒い線と赤や緑や黄の図形が泳ぐようないわゆる「ミロ調」が出るのは1930年代半ばからだが、むしろそれまでがいろいろな試みがあっておもしろい。
戦後はスペインのマジョルカ島に大きなアトリエを構えたせいか、大作が増える。それでも描いた絵を半分燃やしてキャンバスに穴を開けたり、インクを投げて描いたようなアクション・ペインティング風の絵があったりと、最後まで実験を続けている。
スペインは1930年代の内戦からフランコ政権と大変な時代が続いたはずだが、いったいカタロニア出身のミロはそれとどう対峙したのかは展覧会を一度見てもわからなかった。実はそれぞれの絵に隠された意味がありそうなので、もう1回見たい。何と7月6日までなので。「ミロを見ろ」である。
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