わからないシリーズ:その(6)『ミッキー17』と『シンシン』
少し前になるが、ポン・ジュノ監督の『ミッキー17』を劇場で見た。彼がアメリカで作った『スノーピアサー』や『オクジャ』が私には母国で撮った『グエムル』などに比べてどこか絵空事に見えたので、どうしようかと思っていたが、予告編で見たくなった。
結果は『オクジャ』に似て、見ている時は実におもしろかったが見終わるとよくあるSF映画に見えてくるというパターンか。おもしろいのは設定で、ミッキー(ロバート・パティンソン)は地球が嫌で宇宙に飛び出して、「エクスペンダブル」(=消耗品)として過酷な任務につく。死んだらその記憶が保存されて新しい身体に移り、今は17番目の「ミッキー17」だ。
ところが17番が死んだと誤認されて、18番が「印刷」されて動き出し、2人は対峙する。外見は同じなのに、おとなしく従順な17番に比べて、18番は反抗的だ。17番には黒人の恋人ナーシャがいたが、彼女は18番も好きになる。さらにもう1人の女も現れる。
一方でたどり着いた惑星には熊の化物のような宇宙人がいて、そのうち1人を探検隊が殺してしまったことから彼らは大挙して地球から来た宇宙船に向かう。かつてその宇宙人に助けてもらったミッキー17は、何とか彼らと交渉を試みる。
宇宙船には大金持ちの船長ケネス(マーク・ラファロ)がいて、妻(トニ・コレット)と共に、宇宙人を殲滅しようとする。ミッキー17は通訳機を借りて宇宙人の言葉を理解して、彼らの希望をかなえようとする。映画を見ずにここまで読むと、ハチャメチャだと思うかもしれないが、映画を見ているとそれなりに盛り上がるから不思議。
やはりこの監督には基本的にB級ジャンル映画的な才能がある。もちろん、未知の宇宙人を認めない狭量な人類、とりわけ船長を批判して、ミッキーのように多様性を認める者を支持するという今風の思想はある。それはとってつけたようなもので、ごちゃごちゃで奇想天外なB級的物語の展開がこの映画の魅力だ。
もう1本、劇場で見たグレック・クワェダー監督の『シンシン/SING SING』もなかなかの力作だった。ニューヨークのシンシン刑務所で実際に取り入れられている演劇による再生プログラムを再現したもの。ロケ地は使われなくなった刑務所だし、出演するのはメインの数名を除くと経験者。さらに撮影は手持ちの16㎜でざらつき、ドキュメンタリーのよう。
評価する条件が揃ったような映画だが、私はどこか乗れなかった。演劇活動以外はほぼ見せないし、公演に至るドラマチックな要素も省いていたからか。あるいは彼らが作っている芝居の内容がよくわからないせいか。主要の3人を除くとそれぞれの過去も見せないので、どこか抽象的な気がした。
「秀作」であることを目標に作られた良心的な映画なのだが、そこが気になったのだろう。これも『ミッキー17』もかなりいいが、私にはどこかピンと来ないところがあった。
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