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2025年5月 7日 (水)

『エリック・ロメール』を読む:その(1)

アントワーヌ・ド・ベック&ノエル・エルプ『エリック・ロメール ある映画作家の生涯』を読んだ。実は4月17日刊の拙著『ヌーヴェル・ヴァーグ 世界の映画を変えた革命』で2度引用しているが、最初は仏語の原著を自分で訳していた。ところが去年の12月に翻訳が出たのを知り、3月の再校の段階でそちらからの引用にした。

フランス語でも分厚い本だが、翻訳では原注に加えて訳注も加わって二段組の753頁、税込み1万1千円。原著の方はパラパラとめくって気になる部分を読んだだけだが、翻訳ならばとGWに全文を読んだ。

ロメールは謎である。難解な評論を書き、『モード家の一夜』のような哲学的議論ばかりの映画を作ったと思うと、「四季の物語」シリーズのような後期の作品では若い女性たちが自由に動き回る映画を残し、バブル期の東京で人気だった。

ほかのヌーヴェル・ヴァーグ(N・V)のメンバーよりも10歳ほど上で、1970年代にはムルナウの論文で博士号を得ている。N・Vのなかで唯一本名(モーリス・シュレール)を使わずに母親には監督であることを隠し、私生活をきっちり分けて誰もその妻子に会っていない等々。この本を読むとその実像がわかってくる。

彼は1957年、パリ五区のモンジュ通りに妻と住み始めた。55平米で子供2人が生まれると狭くなった。「妻は働きに出ず、個人資産もなかった」「植物園の周りを45分間ウォーキングした後、8時30分に家を出て、平日は丸一日過ごす仕事場に向かい、19時30分に帰宅する」。息子たちが成長すると詩を聞かせ、日曜は美術館に連れて行った。

その年の3月にロメールは『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集長となっている。翌年に亡くなるアンドレ・バザンとは同世代で「自らをバザンの後継者として任じて」いた。しかし1959年以降トリュフォーらがN・Vの監督として有名になり、翌年末にはN・V映画の商業的な失敗が始まっても「ロメールの『カイエ』は彼らの作品を擁護するわけではなかった」ので反発が広がる。

ロメールの初長編『獅子座』が興行的に失敗し、短編『モンソーのパン屋の女の子』と『シュザンヌの生き方』を制作中に、『カイエ』ではロメールとリヴェットの対立が表面化する。ロメールは時にファシズムやレイシズムに近い傾向を持つ右派であり、リヴェットは左派だった。さらにリヴェットは海外の監督や現代思想に興味を持った。

リヴェット側にはトリュフォーも加わり、出資者のドニオル・ヴァルクローズが賛同して1963年5月にロメールは解任された。収入を失った彼は「1963年夏、精力的に仕事を探す」。もともと高校教師だったロメールは教職を探すが、文部省から提案されたのは地方都市だった。そこで国立科学研究センターの研究員になろうと論文計画を出すが、失敗する。

そこで教育テレビの番組制作を引き受け、外務省のフランス紹介の映画を作る。それは中編の『パリのナジャ』となった。そこで得たお金で『パリところどころ』を撮る。もちろんリヴェット、トリュフォー、ドニオル=ヴァルクローズには声をかけない。このことは私の本でも触れたが、この時期のロメールがまさに「就活」をしていたことに驚く。

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