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2025年6月13日 (金)

『国宝』に考える

李相日監督の『国宝』を劇場で見た。これは「朝日」に連載していた頃から楽しみに読んでいたので、李監督の手で映画化されると聞いて嬉しかった。結果から言うと抜群におもしろかったが、少し不満も残った。

「朝日」の連載だと『春に散る』がよかったが、瀬々敬久監督の映画化はそれ以上に感動的だった。今度の『国宝』は小説の方がよかった。たぶんそれは『国宝』が半世紀近くの時の「経過」が大きなテーマだったからではないか。

『春に散る』は前段として主人公の若い頃はあるがそれは小説ではさらりと書かれ、中心は老年にさしかかった現在の話である。その日々を丹念に描くのは映画が得意とするリアリズム表現だ。『国宝』は少年、青年、初老と時代が移り、登場人物も多い。基本的に男たちの物語だったから、寺島しのぶを除く高畑充希や森七菜などの女優たちの扱いが断片的になってしまった。

それにしてもこの映画がすばらしかったのは、歌舞伎のシーンである。冒頭の少年時代の喜久雄が演じる女形から既にある種の艶が伝わってきて、渡辺謙演じる花井半二郎が目をつけるのがよくわかる。そして半二郎の息子半弥が青年になり(横浜流星)、花井家の部屋子となった喜久雄が東一郎と名乗って(吉沢亮)、2人で「藤娘」を踊るシーンの美しさといったら。

『道成寺』や『曾根崎心中』や『鷺娘』もそうだったが、役者の小さな動きとアップ、三味線や長唄などを奏でる人々や黒子たちの動き、すべてが映画のリズムと一体化して、見る者を眼福へ誘う。まして、あえて主要人物に歌舞伎役者を使わずに、よくここまでの充実した映像の緊張感を作り上げたものだと思う。

それはたぶん原作の吉田修一が新聞小説を書く前に3年間も黒子の修業をした執念、10年以上前から歌舞伎の映画を撮りたいと考えていた李監督の構想力、1年以上稽古をして最後は自らの表現に懸けた2人の俳優の驚異的な集中度、歌舞伎座を丸ごとセットで作った種田陽平の高い完成度、それらが奇跡的に凝縮した結果の映像ではないか。

俳優では、人間国宝の万菊を演じた田中泯の佇まいがすばらしかった。日常でも女言葉を使う感じが実に上品。そしてすべてを見ている半二郎の妻役の寺島しのぶは、さすがに梨園に育っただけの風格と迫力を画面一杯に響かせていた。

このように歌舞伎役者を使わずに大胆な勝負ができたのは、製作に松竹が加わっていなかったからに違いない。製作の中心は配給の東宝でさえもなく、アニメのアニプレックスとその子会社に現場の制作として『キングダム』のクレデウスである。こうした新しい勢力だからこそ、これまでになかった歌舞伎映画を作ったのではないか。

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