『私たちが光と想うすべて』の微妙さ
昨年のカンヌでインド映画として30年ぶりにコンペに選ばれ、さらにグランプリを取ったパヤル・カパーリヤ監督の『私たちが光と想うすべて』を満員の劇場で見た。なぜこんなに観客がいるのか不思議なくらい、地味な映画だ。
手持ちのカメラが、ムンバイの街を追う。その優しい手つきは、まるでフランス映画の、例えばミカエル・アース監督の感じか。詩のようなちょっと抽象的なナレーションが流れていくつもの声が聞こえ、少したって看護師のプラバが中心に座ってゆく。
彼女は親が決めた相手と結婚したが、夫はドイツに出稼ぎに行っている。最近は連絡もないが、夫が帰るまでとにかく一人で何とか生きて行こうと懸命に働く。いつも厳しい表情だが、患者にも仲間にも優しい。
病院でよく話すのは、若いアヌと年上のパルヴァティという2人の同僚女性。看護師のアヌにはイスラム教徒の恋人がいる。自分から誘うなど積極的だが、彼の家に行く時にはイスラム教徒のようにヴェールをかぶる。そしてとうとう恋人と関係を持つ場面のエロティックさといったら。
食堂で働くパルヴァティは、高層ビル建設のために住まいを追われることに。彼女は実家に戻ることになり、プラバとアヌは彼女と一緒に実家のある海岸沿いの田舎にやってきた。3人はそこで海に溺れた男に遭遇し、プラバは的確な処置で救い出す。最初はそれほど仲が良さそうには見えなかった3人だが、終盤には固く友情で結ばれていることが感じられる。
これまでのインドのイメージからかけ離れたムンバイは、世界の「大都市」に共通の混沌や格差や享楽を見せる。女たちはそれぞれが苦しみを味わいながらも、手を取り合ってそれを乗り越えてゆく。そのシスターフッドぶりは、映画が進むごとに少しずつ強まる一方で、男たちはいかにも頼りない。風景と人物の間を流れるように動くカメラは、繊細極まりない。終盤に幻想が混じるのも、見ていて心地よい。
インドという、アート映画とは無縁に見える地から現れた「現代の新しい映画」のすべての要素を持つ本作は、カンヌで賞を取り、日本の観客の支持も得たようだ。私はその手つきのあまりのうまさが気になったのか、どこか最後まで乗れずに微妙な感じを持った。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は不思議なSF(2026.04.08)
- 初期アサイヤスに震える:続き『無秩序』(2026.04.12)
- 『自然は君に何を語るのか』の自然とは(2026.04.04)
- 『金子文子』の迫力(2026.03.31)


コメント