城山三郎『落日燃ゆ』を読む
今回、城山三郎という作家の本を初めて読んだ。この小説家のイメージとしては、「経済小説」の大家として企業人や経済関係の官僚の人生を描いている感じで、私は関係ないと思っていた。
彼の『落日燃ゆ』を読んだのは、もともと東京裁判で絞首刑を宣告されたA級戦犯7人のうち、唯一の文官だったの広田弘毅に興味があったから。最近、なぜか、第二次世界大戦期における日本映画について考えることが多い。たぶん大学院で中国人留学生相手の授業をしているからかもしれない。そんな中で広田弘毅のことが気になった。
彼は外交官出身で外相から首相にまでなった。外務省の同期には吉田茂がおり、彼は戦後は総理大臣になり、何期も務めている。あるいは五期後輩の芦田均も首相になり、その同期の重光葵も戦後何度も外相になっている。あるいは7期上の幣原喜重郎は戦後すぐに首相となり、新憲法制定に関わった。
つまり彼以外の外交官は戦後に大物政治家として名前を残しているが、広田だけがA級戦犯で死刑になったのはなぜか。ちなみに2期上の松岡洋右は満鉄総裁もやって死刑確実だったが、裁判中に病死している。この本を読めば、広田が松岡はともかく幣原や吉田に比べて何倍も協調外交路線で中国戦線不拡大を唱えていたかがよくわかる。
この本に西園寺公望が広田を首相に推挙するのに「背広を着たやつがいい」という言葉がある。軍人は困るし、近衛文麿のようなタキシードが似合う男も違うという意味のようだ。彼は福岡生まれの平民だった。1936年3月に昭和天皇に組閣の大命を受けた時、彼が言われたのは、憲法順守、摩擦を起こさない外交、財界に変動を起こさない、名門を守るの4つだったという。
「名門」とは天皇家か貴族の称号を持っているか、幣原や吉田のように名門の娘を娶ったかで、広田は妻も福岡の平民だった。彼は満州軍の独走を止めようとしたが、「統帥権干犯」によって陸軍は抵抗した。実は文化勲章は広田が作った。勲章が軍人、官僚、政治家のもので等級もついていたので、広田は等級なしの文化勲章を天皇に提案し、賛同を得た。
広田は首相退任後、鵠沼の別荘に籠って「位階勲章のすべてを返上したい、恩給もまた返上したい」と申し出た。「どこかの田舎の教師をしたい。それもだめなら習字でも教えて生活する」と。ところが37年6月に2度目の外相を西園寺に懇願されて引き受けた。ところがすぐに盧溝橋事件が起きる。広田は不拡大を主張するが、陸軍に阻まれる。
結局、戦線は拡大し38年5月に内閣改造で広田は外相を辞すが、この時の日本の中国拡大路線と南京大虐殺が戦犯の理由となった。広田は「自ら計らわぬ」と一切の弁明をしなかった。「人間しゃべれば必ず自己弁護が入る。結果として他のだれかの非をあげることになる」という信条で、最初は弁護士も拒否した。そしてこの姿勢が死刑につながった。
妻は判決の前に自害した。判決が下っても広田は「公の人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、今さら別に申し加えることはないと思う」と遺書も書かなかった。歌や詩も残さない。そして軍人たちが「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と叫んで死んでいくと、ただ一人「マンザイ」と言ったらしい。
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コメント
山﨑拓が玄洋社、修猷館つながりの広田を心から尊敬していたので、よくわかります。昭和天皇が広田が平民であることを警戒していたことも。
投稿: | 2025年11月29日 (土) 21時01分
あと、ソ連嫌いがあったんでしょうね。
投稿: | 2025年11月29日 (土) 21時33分