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2025年12月13日 (土)

『昭和の遺書』に泣く

城山三郎の『落日燃ゆ』を読んだせいか、妙に「死に方」が気になってきた。遺書を残さずに、静かに死んでいった広田弘毅の心情をずっと考えていた。そのせいもあって、本屋で見つけた梯久美子の『昭和の遺書』を読んでみた。

この著者は『「死の棘」の妻・島尾ミホ』が衝撃的だったし、『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道』にも泣いた。さてこの本を読んだが、一言で言えば、これも結構泣ける。こちらは広田と違って死ぬ前に遺書や手紙を書いた人たちの話だが、有名人も無名の人もあり、それぞれにいい。

最初に出てくるのは昭和になってすぐ1927年に自殺した芥川龍之介の遺書。友人の作家、久米正雄宛に書いた「将来に対する唯ぼんやりした不安」は有名だが、子供たちに宛てた遺書がすごい。

「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」「若しこの人生に敗れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く他に不幸を及ぼすを避けよ」「汝等は皆父の如く神経質なるを免れざるべし」

芥川の嘘のない心情がにじみ出ているように思える。3人の息子のうち、長男の比呂志はメジャーな俳優となってたくさんの映画に出ているし、三男の也寸志は作曲家で有名だ。いずれも父親似の顔だが、少なくとも外目には「神経質」には見えない。もちろん自殺した有名作家の息子というだけで大きな重圧はあったに違いないが。

プロレタリア小説『蟹工船』で知られる小林多喜二は1933年に築地警察署で拷問の末に死亡したが、遺書はない。しかし書かれているいくつかのエピソードが涙を誘う。

「銀行に就職して初月給をもらった日、高価なバイオリンを買って帰り家族を驚かせたという。音楽の才能がありながら、貧しくて楽器を買うことができなかった弟の三吾のためである。三吾は、のちに東京交響楽団のバイオリン奏者となった。/共産党活動を始めてからも、多喜二は母と弟の生活の面倒を見た。地下に潜ってからも、家族の生活を心配して送金してきたという」

多喜二の死後、母は1961年、87歳で没した。遺品の中に紙片があった。「ああ、またこの二月の月がきた/本当にこの二月という月が/嫌な月、声を一杯に/泣きたい。どこへ行っても泣かれない」(方言を直した文章)。2月は多喜二が死んだ月だった。母は一生そのことを考えていたのだろう。

そして第二次世界大戦で死んだ人々の遺書がたくさん出てくる。将校も、無名の特攻隊員も。これについては後日書きたい。

 

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