AIの書く文章から、三島由紀夫を思い出す
ここに何度も書いたが、1月半ばから2月初めは大学教師にとって本当に苦行の日々だ。学期末試験や課題の採点があり、卒論や修論、博論の審査がある。それが終わると入試がやってくる。これらはすべて大学の根幹というべき大事な仕事だが、やはりつらい。
昨年か、あるいは一昨年からか、このつらさに新たな要素が加わった。課題や卒論や修論でAIを使った文章を読むむなしさだ。一見まともそうに見えるが、根拠があやふや。きちんと引用をしておらず、噂話のまるで噂話の集積のようにも見える。そもそも文章のレベルがあちこちで変わるからわかる。
卒論でこうした文章を読むと、本当にがっかりする。理論系を選択して、自分の頭で考えて調査したうえで何とか自分らしい文章を書くことを目的にしたはずなのに、いつの間にかAIに頼ってラクな道を歩んでいるのだから。学生も4年前は考えてもいなかっただろう。当時はAIは少なくとも文科系や芸術系の学問には全く使えなかった。
今では、質問に応じて海外の一流の学者の文章まで日本語として出てくる。さらに知りたければ原文のリンクがあることも。かつては洋書を取り寄せて読む必要があったが、今では重要な部分だけネットで読むことができる。だから読まなくても読んだふりをすることは簡単。
今のところは、大学教師はそうして書かれた文章はすぐに見破ることができる。しかし2、3年後には無理かもしれない。そうすると文科系の理論的研究の教育自体が崩壊しかねない。自ら考える知性が育たないと、究極的には社会全体がものを考えない、空虚なシステムに近づくかもしれない。
そんなことを考えていたら、三島由紀夫が1970年11月に自衛隊で自殺する少し前に書いた文章を思い出した。「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」という題でその年の7月に「サンケイ新聞」に発表した、遺言のようなものだ。
「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」
この文章から55年。本当に「無機質な、からっぽな」国に近づいてきた。
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