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2026年5月26日 (火)

なぜ「映画史」ではなく「映画誌」か

四方田犬彦さんの新著『映画誌への招待』を読んだ。これは1998年に出した『映画史への招待』に書き足したもので、ほかの本の一部や学会発表が加わり、Ⅲ2「「映画史から「映画誌へ」が」が書き下ろし。

四方田さんは最近、肩書を「映画誌家」としている。通常は「映画史家」だけれどあえてそうしている。つまり「映画史」ではなく「映画誌」とのことだが、書き下ろしの章を読めばそれがわかるかと思った。

結論から言うと、私にはよくわからなかった。この言葉は中村桂子さんが著書に『生命誌とは何か』と題名を付けたことから来ているという。「人間と自然の間の関係を知る手立てとして」生命誌という新語を考案したという。

「映画の歴史とは、名作の歴史や技術の発展の歴史ではない」「映画はまず映画を作ってきた人の歴史である。だが同時にそれを真剣な思いで観てきた人の心象の歴史でもある」

「そこで思い切って「映画誌」という言葉を使い出すと、大草原を山頂から見下ろしているかのように、自分の射程が一気に拡がったような気持ちになった。「誌」とは雑多な植物が好き勝手に繁茂している草原である」

これは四方田氏によれば、映画が今やこれまでの映画とは全く別物になってしまったことと、東北大震災と原発事故が起きたことという2つの出来事が大きい。一つ目は映画館に集って見る形からビデオ、DVDとなり、配信が始まって映画館の文化が終わったことを指す。このことはよくわかる。もはや映画を見るために海外まで行った私の若き日々は、ほぼ冗談のようになった。

そして映画評論を誰も読まなくなる。「誰もが何でも発言することができる。だが誰もそれに耳を傾けようとせず、速度の魔に促されながら、いたずらに粗雑な情報の洪水のなかに溺れてゆく」。それはそうだが、だからといって「映画史」が「映画誌」になる必要があるのだろうか。

もうひとつの東北大震災についてはその後のいくつかの映画が分析されており、とりわけ『シン・ゴジラ』と『ゴジラ -1.0』を論じ、前者が「けっして回避できない日本の宙吊り状態を示すグロテスクな記号」であり、後者は「アメリカへの憎悪と怨恨を逸らすための囮の人形である」とする。

東北大震災が日本人の精神史にとっていかに重要かはわかるが、それと「映画誌」はどう関係があるのだろうか。これから自分でもゆっくり考えていきたい。

 

 

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