「出光真子」展に行かねばならない
東京都写真美術館で9月21日(月)まで開催の「出光真子 おんなのさくひん ある映像作家の自伝」に行かねばならない。これはビデオアートで映画ではない、などと言っている場合ではない。映画好きも美術好きも、見ればびっくりするだろう。
実は私は昔、出光真子の映像を見たことがあった。今から40年近く前、最初の職場で日本美術を海外に紹介していた頃、「日本のビデオアート 1980年代」というアンソロジーを作ったことがあった。その中に彼女の『清子の場合』(1989年)を選んだから。
もちろん選んだのは私ではなく、中村敬治さん 森岡祥倫さん、森下明彦さんという選考委員だったが、誰かが推薦するとみんなで集まって作品を見て決めるというやり方だった。私は《清子の場合》を見て、心底びっくりした。画家になりたかった女性が親に言われて結婚するが、火事と育児に追われて絶望するという内容だ。
わずか25分弱の映像に、女性の芸術活動への切望と男性中心社会への憎悪が凝縮されていた。画面の中にたえずテレビモニターがあり、過去や未来の自分が写る。「ビデオアート」かどうかわからないが、いわゆる映画マニアの私にもズンと響いた。
今回の都写美での展覧会でも、《清子の場合》』はあった。私はまず会場の外にあったインスタレーション《祖母・母・娘》(1976)を見て、中に入ると《おんなのさくひん》(1973)を見た。トイレに浮かぶ使用済みのタンポンの白黒映像は端正で力がこもっている。
それからぐるりと全体を見て回り、《清子の場合》の大きめの画面を見つめた。「絵を描きたければ、結婚して空いた時間にやればいいんだから」というあたりから映像に飲み込まれ、自殺に至るまでを見た。その破壊的な衝撃はたぶん昔よりも大きかった。
それから家庭用テレビくらいの画面がいくつも並び、ヘッドフォンが2つずつ置いてある場所があったので、ちょうど始まったばかりの映像を見始めたら《やすしの結婚》(1986)だった。《清子の場合》ほど強烈ではないが、仕事ばかりで息子の育児を始めとしてすべての家事を母親に押し付ける父親が出てくる。ポイントは、息子のやすしが結婚しても母親は息子に執着し、電話ばかりすること。
やすしは母の愛を素直に受け入れて、妻はあきれてしまうという展開。つまりは男は仕事、女は家事という日本型の家庭がマザコン息子を生み出し、日本的歪みは永遠に続いていくというもの。いやはや。
まだまだたくさんあったが、私は次のアポを入れていたのを思い出した。1時間で十分だろうと思ったがとても足りない。3時間くらい用意して再び行かねばならない。
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