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2026年9月 1日 (火)

《納涼図屏風》に考える

自宅には日本美術のカレンダーがかかっていて、8月は江戸時代の久隅守景作《納涼図屏風》だった。東京国立博物館所蔵の「国宝」だが、カレンダーには親子三人がくつろぐ姿を拡大してかなりの精度で印刷してある。

昔、この絵をたぶんサントリー美術館で見て、なぜこれが国宝かなと思った記憶がある。ちょび髭の気難しそうな中年男に従順そうな妻、何にも考えていないような子供がゴザに座って同一方向を見ているだけの絵だ。

これを実物より拡大して近くで毎日見ていると、何だか中年の悲哀がこもっているようで、だんだんいい絵に見えてきた。男は出世も先が見えてあまり希望は持てない。妻はそれをわかりながら何も言わずに家事を続ける。息子は何となく自分も父親のようになるかもと観念しながら、あえて口に出さない。

というか、妻も息子もおちょぼ口で、まるで話す気がないようだ。ところが男の口は大きく、おまけにちょび髭まであって、文句を言いたいのを我慢しているかのよう。ある夏の休みの日、どこかに行くにも金がなく、庭にムシロを敷いてみんなで遠くを見る。竹で組んだ棚にはいくつも瓢箪が巻き付いている。それが妙な涼しさを呼ぶ。暑くてしょうがないが、これが唯一の楽しみ。そんなストーリーを考えていた。

ところがある日、絵の題名をネットで検索したら、所蔵する東京国立博物館が属する国立文化財機構のサイトが出てきて、細かい解説があった。それを読んだ私はのけぞった。まず、カレンダーには「部分」という表記があったが、それは全体図の1/4くらいしか占めていなかった。

彼ら3人が見つめている先には、白い大きな月があった。つまりこれは夜で、彼らは月見をしていたのだった。それにしては全体がずいぶん明るいけれど、真っ白な月に比べたらすこし影を帯びているようだ。まるで「白夜」と呼びたいような明るい夜。前に実物を見たはずだが、「部分」の絵を見ているうちに月は忘れてしまった。

さらに解説文を読んでもっと驚いた。「三人の身なりは貧しいが、寝そべる男は武士の気概を感じさせるような凛とした表情である」。何と男は武士だったのだ。私はどう見ても農民か商人だと思った。少なくとも誰かに対して威張るような男にはとうてい見えなかったし、刀を差す姿は想像しにくい。

さらに「守景は農村の人びとの暮らしの姿をしばしば描いたが、その主題はそもそも武士が領民のつつがない暮らしを守り、自らを戒(いまし)める「鑑戒画(かんかいが)(勧戒画)」として描かれたものである」。何と「この絵の武士のように真面目に暮らせ」という武士の見本を見せたものだったのだ。

絵というのは、つくづく素人にはわからない。ここが映画との大きな違いではないか。

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