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2026年8月28日 (金)

「上野・大牟田・ブエノスアイレス」展の謎

東京都美術館で開催中の「この場所の風景 上野・大牟田・ブエノスアイレス」展を見た。「大牟田」がひっかかったから。それも「開館百周年記念」企画。「上野」はこの美術館があるから普通。アルゼンチンの「ブエノスアイレス」はかつては移民が多かったから、芸術家もいただろうと思う。

ではなぜ「大牟田」なのか。実は大牟田市は私が生まれた小さな町の隣にある「都会」だった。なぜその大牟田が忽然と開館100周年企画に関係しているのか。実は展覧会を見ても、その点は最後まで半分謎だった。3部構成の「大牟田」の部分は、そこで絵を描き続けた江上茂雄の個展。

江上は1912年に瀬高町(現在、みやま市)で生まれ、15歳で高等小学校を卒業して大牟田の三井三池鉱業所で働き始める。寮に入り、結婚して60歳の定年まで勤める。定年後は寮を出て隣の荒尾市に住んで、毎日絵を描き続け、2014年に101歳で亡くなっている。

会場に並んでいるのは、鉛筆、水彩、クレパス、クレヨンなどで書かれた小さな絵か木版画ばかりだが、所狭しと並んでいて200点は越しているだろう。描かれているのは何もない付近の田舎の風景ばかりで、家があり店があり、川があり山がある。これが妙に情感がこもっていて、時にはかなりシュールな表現になる。

退職後に眼病や脳血栓を患ったが克服し、79年から09年までの30年間、97歳まで水彩による写生を戸外で1日1枚仕上げて帰宅していたという。その数8,500点。判を押したような規則性の中から、まるでモネの後期のような色彩と形の氾濫が生まれている。無名の画家が、描きたいから描き続けた無欲のパワー。

さて第一部は上野の東京都美術館の歴史だが、これがずいぶん簡単だ。しかしここが開館以来、帝展や院展などの美術団体(画壇)のための貸会場だったこと、戦時中は新聞社の戦争美術展に使われたこと、戦後は「アンデパンダン展」のような前衛美術団体が使ったこと、75年に新館ができて初めて学芸員を採用して美術作品の収集も始めたことなど、肝心なことは簡潔だが触れている。

ところが1927年になぜか2点の絵が初めて美術館に収蔵されている。これまで画家の名前と題名しかわからなかったが、今回の調査で1人が小学校の美術教師だったこと、もう1人の藤岡鉄太郎がその年に移民船でアルゼンチンに行ったことがわかったという。そこで調査チームがブエノスアイレスに向かう。

藤岡はアルゼンチン女性と結婚し、庭師や花屋をしながら、絵を描き続けたという。これまた江上茂雄以上に無名の人の百年が浮かび上がる。設立以来100年間、どちらかと言えば時の政権や時代の風潮に巧みに寄り添って生き延びた東京都美術館に、無名の画家2人を敢えて対峙させ、見る者に美術とは絵を描くとは何かを問う。企画者にはそんな思いがあったのかも。

 

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